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音楽を愛する店主のこだわりが詰まった世田谷のライブバー「metta(メッタ)」

祖師谷大蔵のライブバーmetta_ライブ画像

祖師谷大蔵にオシャレなライブバーがある、という話を聞いた。ライブハウスといえば黒を基調にした空間をイメージするが、そこは木目調だという。一体どんなお店なのだろうか。まずは取材だと告げずにお店を訪れてみることにした。

生演奏が楽しめるバー

そのお店は、小田急線祖師谷大蔵駅から徒歩5分ほどの商店街の地下にある「metta(メッタ)」というお店だった。ライブの日とバーとして営業している日があり、訪れた日はバー営業だった。

座ってお酒を注文すると、カウンター席で笑顔でお酒を飲んでいた50代ぐらいの男性が「今日は少し練習がありまして、うるさいですがすいません」と声をかけ、立ちあがってステージに上がりサックスを吹き始めた。

今度は先ほどまで隣にいた若い男の人が立ちあがり、ピアノの前に座って弾き始める、いつの間にかジャズの練習が始まっていた。音の調整を行っていることから、近いうちにステージに立つ予定のバンドらしい。

思いがけず生演奏が楽しめたその日は、店主の大須賀久人さんと少し会話をして、お店を後にした。確かにとてもオシャレなお店だった。一体どういう経緯でこんなお店ができたのだろう。

後日改めてお店を訪問して店主の大須賀さんに色々と話を聞いてみることにした。

本場でブルースを聞くほどの音楽好き

祖師谷大蔵のライブバーmettaオーナー大須賀久人氏

ライブバーを始めるぐらいだから、かなりの音楽好きだろうと、まずは音楽の話から聞いてみる。

「中学生ぐらいから兄の影響で音楽を聴き始めました。最初から洋楽ファンでしたね。クイーンとか好きだったな。海外の音楽が好きで、そのうちに自分もプレーヤーになった。選んだ楽器はドラムでしたね。当時から前に出るよりは裏方の方が好きだったんだと思います」

やがて東京の大学に進学。そこで音楽のサークルに入り、音楽漬けの日々を送る。その後、製薬会社に入社すると大須賀さんは営業職につく。

「30歳を前にして係長試験を受けろとか言われるようになって、絶対嫌だなと。管理職とか性格的にも向いてないのは自分でも分かるので」

そこで大須賀さんは、仕事を辞め、学生時代に働いていた横浜の清掃会社でアルバイトを始めることにした。その後、東京にいた兄の紹介で焼き鳥店でのアルバイトも始め、同時に掛け持ちで焼肉店でも働くようになった。

「この頃は飲食店の仕事が楽しくなってきてましたね。ただ、働いて分かりましたが、飲食店は経営者にならないと収入の面で長くは続けられない。少しずつ自分でお店を持つことを意識し始めました」

このアルバイトの時期に大須賀さんにとって大きな転機となる出来事があった。

常連だった甲州街道沿いにあった「GOKIGENYA(ごきげんや)」というバーで、マスターにライブの提案をし、開催したところ大成功を収めたのだ。

「もともとマスターが音楽関係の人で、お客さんにもバンドマンや音楽好きが大勢集まっている店でした。そんな店だったので、マスターにお試しで一回イベントをやらせてと頼んだんですよ。そしたら、出演者もすぐに決まって、集客も良かったんですよ。お店としても売上が増えるから大歓迎という感じで、2回目、3回目と続いて、僕が出る順番とかを決めて、イベントとしてけっこう上手くいったんですよ」

この体験でバーとライブの可能性を感じた大須賀さんだったが、ある日、体に異変が起きる。

「体の右側が利かなくてきたんですよね。右手で持っている携帯をやたらと何度も落としたり、右足がいうことを聞かなくなってきて。2週間ぐらいそのまま過ごしてたんですけど、当時はもう結婚していたので奥さんがおかしいから病院に行こうと言って、行ったら脳梗塞でそのまま1ヶ月入院でした」

退院後は公園を毎日リハビリのために歩き続ける日々。どうにか体は復活したが、医者からは今後演奏することを禁止されてしまった。

「兄が脳の病気で亡くなっているので、自分も恐怖心があった。その一方で音楽は自分の中で、頭の上にずっと存在しているような、それぐらい特別な存在だった。だから演奏ができない、という言葉は音楽との接点が絶たれたようでショックでしたね」

これからどうやって生きていくのかを考える中で浮かんだのが、「GOKIGENYA」での経験を元にライブを中心にした飲食店を行うことだった。

同時にヒントになったのは、大須賀さんがサラリーマン時代に休暇を使って訪れたニューオリンズなどのライブバーだった。

「昔からブルースが好きで、本場で見たいとサラリーマン時代に行っていましたね。もう本当に日本とはレベルが違う、すごく技術的に高いアマチュアがゴロゴロいて、驚きましたね。あとは単純にその場の雰囲気が良かった。日本だと演奏する人、聞く人という感じですけど、そこはお客さんも含めて楽しんでいて、音楽が日本よりもずっと身近なものとして存在しているような気がしました」

やらないこと、やると決めていたこと

祖師谷大蔵のライブバーmetta

「名古屋人なので貯金はしていた」と語る大須賀さんは、祖師谷大蔵に希望していた物件を見つけ、2016年にオープンを果たす。

オープン時に決めたことがある。それは出演料を取らないことだった。

「普通のライブができるお店はオーディションがあったり、チケットのノルマがあったり、出演料があったりするんですけど、うちはそれはやらない。それは自分が出る側だった時の経験から。ステージにあがることが負担ではなく、もっと気軽に楽しんでほしかった」と大須賀さんは語る。

その一方で、店を続けるために考えていたこともある。

「前にGOKIGENYAでライブの取りまとめをやって思ったのは、プロとアマチュアだったら、アマチュアの人の方がお客さんをたくさん呼んでくれる。集客がお店の収入につながるので、セミプロやアマチュアの人を中心にしようと思っていた」

また、内装に関しても決めていたことがある。

「日本ではライブハウスというと黒が多いけど、うちは木目を生かした内装にしようと思っていた。それは海外のライブバーを見てきた経験から。向こうはそういうお店が多かった。あとはこまめに掃除して常に清潔にしておくこと。飲食店はすぐに汚れてしまうので、それだけは心がけてますね」

こうして、アマチュアやセミプロの人を中心にした、木目調の内装がオシャレなライブバーが誕生した。

「最初の頃は、大学時代の音楽サークルの仲間がよく演奏してくれたけど、次第に演奏したい、という人が増えてきて、だんだんライブの日が増えてきた。上手い下手というのは、うちはあまり関係ない。ただカラオケとか練習場ではないので、お客さんのために演奏してもらう、そこだけですね」

大須賀さんに、音楽好きがライブバーをやると好きじゃない演奏とかもあるのでは、と少し意地悪な質問をしてみた。

「うちはジャズのライブが多いけど、僕がジャズに詳しくないのでなんとも思わないですね。演奏の好みよりも、ライブをやっている人がいて、それを楽しんで聞いている人がいる。僕は病気になって演奏ができなくなったけど、その空間が好きだった。そこにずっといられる、というのもライブバーを始めた理由の一つですね」

コロナ禍でも音楽を届け続ける

2021年1月、mettaは緊急事態宣言を受けて、バー営業は休業し、注意喚起をしながらライブのみ再開など、試行錯誤をしながら営業を続けている。

「店がすぐにつぶれるほどのダメージは受けてないですけど、やっぱり仕込んでいたライブが中止、延期になるのは心配になりますよね。これまで何年もかけて積み上げてきてようやく形になる、というライブが次々に延期になると、今後どうなるんだろうという気持ちになります」と不安を語る。

最後に今後の展望について聞いてみた。

「このお店からスターを出そう、とかそういう野望は無いです。自分の演奏を聴いてほしい、という方にとって気楽に出れる場所として在り続けるように、お店を続けていくことが目標ですね」

ずっと音楽と共に生きてきた大須賀さんが病気でプレイヤーとしての道を絶たれ、たどり着いたライブバーというスタイル。その大須賀さんが作り上げた「metta」という空間は、冒頭で書いたようにバーのつもりで来たらジャズの生演奏が始まるような、音楽が身近にあるステキなお店だった。

音楽好きが集まると聞くと、やや敷居が高いように感じるかもしれない。しかし、このお店は決してそんなことはなく、まるで会話をする近くで静かに川が流れているように音楽が自然と近くにある、そんな心地の良いお店だ。

興味のある方は、同店のサイトでスケジュールを確認のうえ、足を運んでみてはいかがだろうか。

drink&music 『metta』

■住所
東京都世田谷区砧6-29-4フロンティア21 B1F

■連絡先
03-6873-9224

■営業時間
19:00-25:00

※現在は休業、または時短営業のため、営業時間等は事前にサイトでご確認ください。

■定休日
火曜日

■URL
http://metta.tokyo/

■アクセス
小田急線 祖師ヶ谷大蔵駅 徒歩5分

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【コロナ禍の変化】下北沢で30年続くカウンターバー「ハーフムーンOK」

下北沢のBARハーフムーンOK_MV

2021年2月、新型コロナウイルスの感染拡大により、東京都に再び緊急事態宣言が出る中で、いま飲食店の経営者はどのようなことを考えているのだろうか。

今回は下北沢で30年以上の歴史を持つバー「ハーフムーンOK」のオーナーである小山 修(こやま おさむ)さんに、コロナ禍での営業、さらに同店の特長である日替わりマスター制が生まれたきっかけについて話を聞いた。

オーナー自らが店に立って時短営業

下北沢のBARハーフムーンOK_場所
スズナリの近くのビニールに覆われたお店の左隣にハーフムーンOKの入口がある

「ハーフムーンOK」は、茶沢通りに面した下北沢の小劇場「スズナリ」の近くにあるカウンターバーだ。

同店の特長は、オープン当初から日替わりマスター制を導入し、曜日ごとに異なるマスターがカウンターに立つ点にある。

専業のバーテンダーから本業を持つサラリーマン、ラジオパーソナリティなど、30年の歴史の中では多彩な面々がカウンターに立ち、下北沢の夜を盛り上げてきた。

夜の前半と後半で人が入れ替わる曜日などがあるため、現在は11名のマスターが同店で働いている。ちなみにお店に入るマスターは紹介で決まることがほとんどだという。

通常の場合は21時頃にオープンし、明け方まで営業をしていたが、2021年1月の緊急事態宣言を受けて、営業時間を16時~19時に変更。曜日も火曜日と水曜日、日曜日は不定期で営業を行っているという。また、現在は日替わりマスターには休んでもらい、オーナーの小山さんが自らカウンターに立って時短営業を続けている。

日替わりマスター制をいち早く導入

雑誌などで「元祖日替わりマスターの店」として紹介されることもあるハーフムーンOKだが、小山さんはその言葉を否定する。

「うちが最初ではないと思う。確かに業界的には早い方だったけど、どこかがやっているのを知っていたから取り入れたんだと思う」と当時を振り返る。

そもそも小山さんが、飲食業界に入ったのは偶然がきっかけだった。

小山さんは、学生時代に原宿にあるお弁当の総菜をつくる工場でアルバイトをしていた。その後、大学を卒業すると、証券会社に就職をした。

「いざ働いて1年ぐらいすると自分に向いてないことが分かってきた。このままでいいのかな、と思っていたタイミングで原宿の総菜工場のところにビルを建てるという話を大家さんから聞いて、『2階、3階でお店をやらないか』と誘われたんだよね。内装の費用は大家さんの方で負担するという話だったから、それならやってみようとなった。それが24歳の時でした」

小山さんは以前からの知り合いである神藤恒平さんに声をかけ、二人は共同経営者となり、ロックバー「ハーフムーン」を原宿にオープンする。

飲食店の経験がなかったため最初は苦労したものの、やがてお店は軌道に乗り、その頃に新たな物件の話が舞い込んできたという。

「前と同じ原宿の大家さんが下北沢のこの場所を紹介してくれて、もともと原宿のお店が終わった後に下北沢に飲みに来ることが多かったから、街の雰囲気も分かっていたので、よしやってみようと思ったんだよね。でも、基本は原宿だから下北沢と両方で働くのは無理だと思っていた」

そこで生まれたのが、日替わりマスター制だった。曜日ごとに異なるマスターがカウンターに立ち営業をするスタイルは、やがて人気を呼び、雑誌などにも掲載され、テレビの下北沢特集でも「個性的なバー」として取り上げられるようになった。

コロナ禍で感じる下北沢の街のやさしさ

下北沢のBARハーフムーンOK_オーナー小山修氏
ハーフムーンOKのオーナーの小山修さん

昨年には30周年を迎え、いつしか「ハーフムーンOK」は下北沢でも老舗の1つとなった。

だが、新型コロナウイルス の感染拡大によって休業や時短営業が始まり、小山さんの生活スタイルも一変し、色々と考える時間が増えたという。そんな小山さんにいま何を思うのかを聞いてみた。

「まさかこんな日々が来るとは思わなかったね。色々と大変なことが多いけど、それでも日替わりマスターも含めて、いま一緒に働いている仲間が本当に助けてくれた。あとは、昔のことを思い出すね。前に働いてくれたマスターへの感謝とか、あの時怒って悪かったな、一生懸命やってたのにな、とかそんなことを思い出したりする」と小山さんは語る。

同時に周りの人の優しさにも助けられたという。

「本当に大変だけど、この街の人の優しさに助けられました。特に忘れられないのは2020年の最初の緊急事態宣言の時。あの時は本当に大変で、常連だった隣町の池ノ上のバーのママが『飲みにおいで』と連絡をくれたけど、手元には数千円しかない。『お金が無くていけないよ』と言っても『おいで』という。重い足取りで行ってみたら、うちの状況を知っているママが、『うちはまだ大丈夫だから、あなたのお店が心配で、100万円用意したから、いつでも貸すよ』と言ってくれたんですよ。結局、まだ平気だったので借りなかったけど、あの時はお金よりもその気持ちがすごく嬉しかった」

平日の16時から19時の時短営業を行っているが、足を運んでくれるお客さんはいるという。
長く積み上げてきたお店の歴史、楽しい夜の記憶が人々をハーフムーンOKに向かわせるのだろう。

下北沢の景色は駅前再開発によりすっかり変わってしまったが、アットホームな雰囲気こそがこの街の変わらない魅力であり、その象徴といえるのが隣に座った人と気軽に話せるカウンターバーだろう。

興味をもった方はコロナ禍が落ち着いた頃に、ぜひ一度足を運んでみてはいかがだろうか。その時にはぜひ曜日を変えて何度か訪れてみてほしい。きっとあなたもお気に入りのマスターと出会えるだろう。

下北沢のBARハーフムーンOK_入り口

ハーフムーンOK

■住所
東京都世田谷区北沢1-46−1

■連絡先
03-3468-7942

■営業時間
21時~翌朝まで

※緊急事態宣言中は火曜日、水曜日の16~19時、日曜日は不定期で営業

■定休日
不定休

■アクセス
小田急線・京王井の頭線 下北沢駅 徒歩6分

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世田谷の住宅街にあるクラフトビール醸造所「RIOT BEER(ライオットビール)」

ライオットビール_mv

世田谷区の砧に「ライオットビール」というクラフトビールの小さな醸造所がある。

醸造所ではあるが、カウンター席が10席ほど用意されており、つくられたビールを飲むことができる。夕陽が見え始める頃になると、同店のクラフトビールを求めてお客さんが一人、また一人と訪れ、お店の人と会話をしながら、ゆっくりとグラスを傾ける。

取材のために訪れたが、初めての来店だったので店員の方に好みの味を伝え、おすすめされた一杯を飲んでみる。深いコクと豊かな味わいに思わず、「ああ、美味い」と声に出してしまった。

一体どんな人がこのビールを作っているのだろうか。こちらのビールの醸造を担当するヘッドブルワー( 醸造 の責任者)である江幡貴人さんに話を伺った。

イギリスのパブで出合った一杯のクラフトビール

ライオットビール_江幡貴人さん
ソフトウェア会社から独立してクラフトビールづくりの道に入った
江幡貴人さん。

そもそも江幡さんとクラフトビールの出合いは、大好きなサッカー観戦がきっかけだったという。

江幡さんは国内だけでなく、海外のサッカーも見に行くほど熱心なサッカーファンだった。そんな江幡さんがイギリスを訪れた際、現地のパブで飲んで衝撃を受けたのが、その町で作られているクラフトビールだった。

「日本のビールは有名なメーカーが何社かあって、お店に飲みに行ったらそのどれかを飲む、というのが当たり前ですが、そのイギリスのパブで飲んだクラフトビールは、その地域だけで作っている、名前も知らなかったビールなんですけど香りも良くてコクもあって美味しい。こんな世界があるんだと驚きました」

その後も、江幡さんはサッカー観戦でヨーロッパに行くたびに現地のクラフトビールを味わい、自分の好みの味を探し続けた。やがて江幡さんは味わうだけでなく、自分でもクラフトビールが作りたいと思いはじめたという。

醸造所を住宅街に作る!?

江幡さんは、まずクラフトビールの作り方を学ぶために、クラフトビールの醸造所である「十条すいけんブルワリー」で修業をさせてもらうことにした。そこで知ったのはビールづくりの意外な事実だった。

「ビールを作ってる、というと楽しそうなイメージがありますが、現実はすごく体を使うことを知りました。小麦は大きな袋に入った重いものを運ぶし、温度管理があるからクーラーが使えず、夏は暑い中で汗だくになりながら、冬は寒い中で凍えながら重いものを持つ。完全に体力勝負でしたね」

へとへとになりながらビールづくりを学ぶ一方で、物件探しにも着手していた。場所は世田谷を中心に探していたが、なかなか良い物件は見つからなかった。

その原因のひとつが、ビールの醸造所という存在だった。江幡さんが考えていたのは、ラーメン店の厨房程度の「マイクロブルワリー」と呼ばれる、小さな醸造所だったが、建物を持つ大家さんは、工場のような大きなタンクを想像し、「ビール醸造所なんて」と話が進まなくなってしまうことが多かったという。

諦めかけた時に見つけたのが現在の場所だった。住宅街の中にありながら、五差路の角にあり、人も車も通る人通りのある場所。広さもイメージに近かったという。

「うちはあくまで醸造所がメインで、その場でビールも飲めるお店にしようと思っていた。そういう意味ではこの場所はピッタリでした」

こうして、2018年4月、ようやくライオットビールがオープンしたのだった。

ライオットビール_外観

クラフトビールの魅力は自由なところ

江幡さんにクラフトビールづくりの話を聞くと、ビール酵母と麦芽とホップの組み合わせの話になり、酵母の種類やそれぞれの割合や入れるタイミング、さらに温度を変えることで、自分が目指したい味を作り出せるという。

話を聞いていると、ビールづくりの試行錯誤はまるで理科の実験のよう。ひょっとして理系ですか?と聞くと、やはりそうだという。

「学生時代はずっと理系でした。その後の就職先もソフトウェア会社のエンジニアという『理系のモノづくり』をしていました。クラフトビールづくりは完全に理系ですね。ビールづくりは科学だと思います」と江幡さんは笑顔を見せる。

そんな江幡さんにクラフトビールの魅力を聞いてみた。

「クラフトビールは自由なんですよね。コーヒーとビールを組み合わせてみたり、変わったものだとカツオ節をビールに入れたり。クラフトビールはまだまだやれることも多く、色々と試して味を生み出すことができます。そういう自由なところが好きですね」

さらに今後のビールづくりの目標についても聞いてみた。先ほど味わった感じでは、すでにかなりのレベルに達していると思われるが、そのことを伝えると、江幡さんは意外なことを言った。

「自分の中ではまだまだですね。やはり僕が目指すのはイギリスのパブで飲んだあの味です。試行錯誤しながら少しずつ近づいている感じです」

2020年以降は新型コロナウイルスの感染拡大もあり、飲食店にとっては痛手が続いた。ライオットビールにとってもそれは同様だった。特に沖縄や京都などの観光地にある主要な卸売り先がストップしたことで、大きな影響を受けたという。その一方でありがたいこともあったそうだ。

「うちは住宅街の中にあるので、遠出ができない近所の方が『前から気になっていた』と足を運んでくれることが増えました。砧の周辺には海外に住んでいた経験がある人も多く、懐かしい味だ、と喜んでくれる人もいました。世田谷の地で何ができるか、ということを考えているので、そうした地域の人との出会いは嬉しかったですね」

イギリスのパブで飲んだ一杯のクラフトビールが江幡さんの人生を変えたように、世田谷で生まれたこのお店のビールがいつか誰かの人生を変えるかもしれない。

世田谷生まれのクラフトビールを、ぜひあなたも味わってみてはいかがだろうか。

ライオットビール_通販
ボトルのビールについてはWebでの販売も行っている。
https://riotbeer.theshop.jp/

ライオットビール

■住所
東京都世田谷区砧5-11-10

■営業時間
月・水・木・金 15:00〜21:00(ラストオーダー)
土・日・祝 13:00〜21:00(ラストオーダー) 
火は醸造日のため、10:00-16:00 瓶ビールのみ購入可

※新型コロナウイルス感染予防対策のため、現在の営業時間の詳細は以下のサイトをご確認ください。

■URL
http://www.riotbeer.biz/

■アクセス
小田急線祖師谷大蔵駅徒歩7分

世田谷クラフトビール巡り

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池尻大橋でクラフトビールを角打ちで楽しめる 「クラフトビールシザース池尻大橋」

東急田園都市線の池尻大橋駅そばに2020年4月、新しいクラフトビール専門店「CRAFT BEER SCISSORS(クラフトビールシザース)池尻大橋」がオープンした。

こちらのお店の特長は、生のクラフトビールの提供以外に、店内にズラリと並ぶ冷蔵庫に置かれた国内外約130種類のクラフトビールを購入したら、そのまま店内で飲むことができる「角打ち」と呼ばれるスタイルを採用している点にある。

「海外のオシャレなカフェをイメージした」というステキなお店のオーナーである、森川達功氏に開店までの経緯とオープンから約半年が経った現在の状況についてお話を伺った。

「クラフトビールの美味しさを若い人にも伝えたいですね」と語るオーナーの森川達功氏

美容師とクラフトビール

——クラフトビールとの出会いを教えてください

もともと僕は美容師をやってまして、仕事終わりにたまたま入ったお店で川崎のクラフトビールを飲んでそこからハマった感じですね。ゆっくりと味を堪能する感じがいいですよね。一杯の満足度が違うと思いました。

——元美容師なんですか?いまも現役の美容師ですか?

いまも現役の美容師ですね。外苑前で共同経営のお店をやっています。

こちらのクラフトビールのお店は3人体制でやっていて、ぼくは美容室が休みの日に入ったり、午前中は美容師の仕事をして、午後からこちらで働いたりとか、そういう感じです。

——クラフトビールのお店を開くまではどのような流れになるのですか?

美容師の仕事とは別で飲食店をやりたい、という夢が自分の中にありました。それである時にクラフトビールの内装を多く手掛けているデザイナーと知り合う機会があって、自分の中でクラフトビールが特別なものとして記憶されていたので、飲食店をやりたい、という想いとクラフトビールがそこで交わって、クラフトビールのお店をやろうとなりました。

——そこからはスムーズに開店まで行きましたか?

決めてから1年ぐらいかかりましたね。物件探しがけっこう難航しました。東急田園都市線に住んでいるので、沿線にしようと思って、用賀とか駒沢大学もいいな、とか色々と見て回りました。予算と立地を基準に色々と検討した結果、この池尻大橋駅徒歩2分のビルの地下という場所になりました。

——どんなお店にしようと思いましたか?

クラフトビールが飲めるお店でありつつ、同時にクラフトビール専門の酒屋にしようと思いました。そのためにお酒を販売をする免許も取得しました。同時に取り入れようと思ったのが、酒屋で買ったものをその場で飲める「角打ち」というスタイルでした。

お店では常時10種類の生のクラフトビールが提供されている。
4種飲み比べ(1200円)もあるのでお気に入りの一杯を探すこともできる。

——オープンまでの1年で他にやったことはありますか?

田園都市線沿線を中心にけっこう都内のクラフトビールのお店に行きましたね。地方にも行きました。その中で感じたのは「なんでも自分できるんだ」ということでした。

東北のクラフトビール店に行った時に店内のものを色々と自作していて、店主と話した際に「けっこう自分でできるよ」と教えてもらったのですが、そういう自分でやってみる、DIY(Do It Yoreself)の精神がクラフトビールの背景にはあって、その姿勢を学びましたね。

クラフトビールのテイクアウトで自粛期間を乗り切る

——2020年の4月にオープンしましたが、状況的にはいかがでしたか?

緊急事態宣言が出た時期であり、不安はありました。一方で救いだったのは、うちがクラフトビールを飲むだけでなく、販売もしていることでした。

——店内の冷蔵庫にはかなりクラフトビールが揃っていますが、どれぐらいありますか?

いまは国内外で120~130種類ぐらいですね。自分が飲んだことがあるものやクラフトビールの評価サイトなどを見ながら専門の問屋に注文したり、この蔵元が作っているなら絶対美味しいから飲んでみたい、とか色々な基準で決めていますね。

店内に並ぶ冷蔵庫には120種類以上のクラフトビールがあり、購入して持ち帰ることも店内でそのまま飲むこともできる(別途開栓料100円)。

——生ビールのテイクアウトもしているんですよね

「グラウラー」と呼ばれる専門容器があり、それを使うと生ビールの持ち帰りができるんです。この「グラウラー」はクラフトビールが盛んなアメリカでは文化として定着しているのですが、日本では流行らないと言われていました。それが、この自粛期間中にクラフトビールを飲みたい、という人が存在を知って、かなり広がった印象ですね。うちではレンタルも販売もやっています。

——テイクアウトのお客さんは多かったですか?

そうですね。特に自粛期間中はテイクアウトの人がけっこう来てくれました。

お店をやって感じたのですが、クラフトビールファンというのは一定数存在していて、その方たちが「池尻大橋にクラフトビールをテイクアウトできるお店ができたぞ」とうちに来てくださっている感じです。テイクアウトであれば車で来て持ち帰ることもできるので。

——生ビールは持ち帰ってどれぐらい持つものですか?

購入した日に飲み切るぐらいが良いですね。利用される方は今日はパーティーがあるから、など何人か集まる時に購入される方が多いですね。

生ビールをテイクアウトできる「グラウラー」は店内でも販売&レンタルを行っている。

クラフトビールとの出会いを増やしていきたい

——お店がオープンして約半年が経ちました。現在の状況はいかがですか?

少しずつ確実にお客さんが増えている感じですね。けっこう「池尻にこういうお店が欲しかったんだよ」と言われます。地元の人に喜んでもらえるのは嬉しいですね。

——キャッシュオン(一杯ごとにお金を払う)でテーブルチャージが無いから気軽に来れる感じですよね

そうですね。だから1日に3回、4回と来てくださる方もいます。1杯だけ飲んで移動して、また後で来て、みたいな使い方をされているみたいですね。サッと来て飲んでいくみたいな。ありがたいですね。角打ちの場合は開栓料金としてプラス100円かかりますが、それでもこれだけ種類があるので、みなさん楽しんで選んでくださっています

——いま生ビールの種類はだいたい10種類あって順次入れ替わっていく感じですか?

そうですね。常に次に出すものを用意しておいて、 ストックが終わったら入れ替える感じです。

——いつも同じものを提供して、あれを飲みに来た、というファンを増やす方法もあると思いますが、なぜ入れ替えるのですか?

クラフトビールは個性的なのが特長です。その中で自分が好きなビールとの出会いがあると思います。いまはクラフトビールファンが多く来てくださっていますが、自分としては「この店でクラフトビールの美味しさを知りました」という人が一人でも増えて欲しいと思っています。その思いからビールを固定するよりも入れ替えて、色々なビールを提供するというスタイルにしています。

地下にある店内には、立ち飲みスペースとイスのあるカウンターバーが用意されている。

地下にある落ち着いた店内で、クラフトビールを手軽に楽しめる「クラフトビールシザース池尻大橋」。あなたもお気に入りの一杯との出会いがきっとあるはず。ぜひ一度足を運んでみてはいかがだろうか。

池尻大橋の夜道に映える「BEER」の看板が目印。

CRAFT BEER SCISSORS(クラフトビールシザース) 池尻大橋

■住所
東京都世田谷区池尻2-30 12OSビル B1F

■電話番号
03-6770-8144

■営業時間
15時~23時30分(金、土・祝前日は27時まで)

■定休日
無休

■URL
https://beerscissors.wixsite.com/2020

■アクセス
東急田園都市線 池尻大橋駅徒歩2分

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地域の美術館として今できることを「世田谷美術館」

2020年の夏、世田谷美術館のある展示が大きな話題を呼んだ。

「作品のない展示室」

本来は作品を飾るための展示室に何も飾らず、来場者は広々とした空間とそこから見える緑を楽しむ、という奇策ともいえる展示が話題を呼び、新聞各紙やSNSなどで取り上げられ、6月3日~8月27日、47日間の会期中に16,625人の方が訪れた。

「大変な状況だけど、こんな時だからこそ、みんな自分の『好き』に向かっていると思います。その中で世田谷美術館を大切に思ってくれる人たちがいる。いまはその気持ちに応えたいと思っています」

そう語るのは世田谷美術館の副館長であり、学芸部長の橋本善八さん。
橋本さんに、これまでのコロナへの取り組みと今後の展望について話を伺った。

「今回のことで世田谷美術館を支えてくださる方々のありがたさを再認識しました」と語る世田谷美術館・副館長・学芸部長の橋本善八さん。

2月頭に対応マニュアルを作成

―世田谷美術館は2020年3月30日~6月1日まで休館となりました。それまでにどのような準備を進めていましたか?

2月頭には臨時休館になった場合のマニュアル作成を始めていました。あの頃は、まだ数ヶ月で終わるのではという楽観ムードや様子見のムードもあったのですが、私は毎朝ワールドニュースを見ていて、これは大変なことになるぞ、と思っていました。

―休館といってもすでに準備していた展示もあったと思います

今年度の企画展はすでに決定しており、年間予定表も完成していました。

一般的に企画展は、だいたい3〜4年前から準備を進めています。休館となれば実現に向けて何年もかけて動いていた展覧会ができなくなってしまう。止めたとしても今度は保障の問題も出てくる。でも、そんなことも言っていられない状況でした。

来場者の安全を確保しなくてはいけないし、世田谷美術館には、職員の他に警備や清掃を担当する方など約100名以上が関わっており、その全員の安全も考えなくてはいけません。休館については、区からの連絡で決定しましたが、その頃には、その覚悟はできていました

作品のない展示室の誕生まで

世田谷美術館は、2020年3月31日に臨時休館に入り、6月2日に休館が明けた。

みんなが再び集まった当日、橋本さんは学芸部の主要メンバーを集め、今後についての話し合いを行った。

海外からの作品借用をしての展覧会を諦め、所蔵品を使った展示に切り替えるなど、様々なことを決めていく中で大きな課題となったのが、目の前に迫った7月から8月にかけて1階の展示室のスケジュールが空いていることだった。新たな展示をするにしても準備には数ヶ月はかかる。

解決法が無いように思えた問題に対して、出席者の一人が「展示室そのものを見せたらどうかな」と発言したという。

少しの沈黙の中で橋本さんは、その案の可能性を考えたという。世田谷美術館の強みが建物にあることも事実だった。

設計を担当した建築家の内井昭蔵氏は建築の際に「生活空間としての美術館」「オープンシステムとしての美術館」「公園美術館としての美術館」というコンセプトを掲げた。そのため、通常の美術館には作品の劣化を防ぐために、外光の入る窓が無いのが常識だが、世田谷美術館には窓があったのだ。それはコンセプトにある「公園美術館としての美術館」に沿ったものであり、その窓の向こうには夏の日差しを受けた豊かな砧公園の自然が見えていた。

―「作品のない展示室」は上手くいくという確信はあったのですか?

これが来館者に受け入れられるかは正直分からなかったです。ただ、公園美術館である世田谷美術館にしかできない企画であり、コストも多くはかからない、準備も最小限ですますことができる、それならやってみようと思いました。

―「作品のない展示室」の狙いはなんだったのでしょう?

来館した人は壁が取り払われた広々とした空間で窓から見える緑を楽しむ、それだけです。でも、毎日不安になるニュースを聞いたり、遠出ができないなど、多くの人がストレスを抱える中で、少しでも癒しの時間を提供できればと思いました。

―8月27日に終了しましたが、結果はいかがでしたか?

最初はスロースタートでしたが日に日にTwitter、Instagramでの投稿が増えていきました。また来館者に行ったアンケートを見ると、85%が都内在住の方でした。普段は60%ぐらいが都内で、それ以外は県外の方になりますが、時期が時期だけに都内の人が圧倒的に多く、都内以外の方も東急線沿線の神奈川の方が多かったですね。

2020年夏に開催された世田谷美術館の「作品のない展示室」は大きな話題を呼んだ。

世田谷という土地だから実現した収蔵品の数々

世田谷美術館には2つの役割がある。1つが年間でスケジュールを組んだ企画展の開催。もうひとつが博物館としての役割である作品の収集、保存だ。

―世田谷美術館の収蔵作品はどれぐらいあるのですか?

当館では現在約1万6千点を所蔵しており、いまも毎年数百点は増えています。美術作品という人類共有の財産を調査・研究し、収集事業を進めて100年後、大げさにいえば1000年後の人たちに残していく。これは美術館の大切な役割の一つです。

―それはすべて購入するのですか、それとも寄贈もあるのでしょうか?

世田谷区には芸術家の方やコレクターの方が多く住んでいます。そうした方が亡くなった後に遺族などから寄贈いただくケースが多く、価値が高いものも多い。それは世田谷区だからこそのメリットと言えると思います。

―収蔵作品が多いことはこの状況ではかなり大きかったですか?

海外の作品を日本に持ち込む場合は、必ず所蔵館の現地の職員も来て、作品の取り扱いをチェックするのが美術界の常識です。当館の作品を貸し出す場合も職員が必ず一緒に行きます。その作品と人の移動というのが、いまの状況では時間もコストもかかりすぎてしまって実現できない。

作品が来なければ予定していた展覧会はできない。そんな時でも当館には豊富な所蔵作品があるので、それで新しい展示を構成することができました。

―すべての美術館が作品を所蔵しているものですか?

それは色々です。展示スペースを貸し出したり、そこで借用してきた作品で展覧会を開催し、所蔵品はもたないという美術館もあります。当館に関しては、1986年の開館からずっと積み重ねてきた財産が活きました。


この豊富な収蔵品を活かして、世田谷美術館は今年度の展示の予定を変更し、入館にあたっても徹底した対策を行い、再び来場者を受け入れている。

世田谷美術館のファン、関わってくる人を大切に

―なんとか今後の見通しは立ったという状況でしょうか?

そうですね。それでも悔しい思いはあります。世田谷区では、区内すべての小学校4年生と中学1年生が美術鑑賞教室という教育プロジェクトで必ず世田谷美術館を訪れます。

区立の小学校は62校あり、彼らがバスに乗ってほぼ1年を通して美術館を訪れ、中学生は夏休みを中心に個別で来館します。その対応をするのは当館のボランティアのみなさんです。最初は子どもたちが緊張していても、帰りにはボランティアの方とすっかり打ち解けている。そんな光景もよく見られます。子どもたちにとって美術に触れる貴重な体験であり、それは1986年の開館以来ずっと続けてきた大切な事業です。それが今年は中止になった。それは非常に残念でした。

―これまで継続していたものが止まってしまったんですね

はい。また世田谷美術館では「世田谷美術館美術大学」という長期講座も開館の翌年にあたる1987年から開催していました。こちらの開催ができなくなってしまいました。

若い方も年輩の方も集まって、講義、実技、鑑賞という3つの方向からアートを学ぶ講座で、卒業した後も同期の人たちが集まったり、卒業生同士の交流もある。年輩の人が若い人に『何期生だから先輩ですね』という会話があったりするほど、世田谷美術館が積み重ねてきた大切な柱の一つです。こちらも臨時休館に伴って中止になりました。

ただ、いまはオンラインで講座を開催しているので、逆に近隣の方以外も参加できるようになりました。

―それはそれで良かったですね

はい。世田谷美術館では講演会なども行えるので、それをオンラインで配信したり、あるいはこれまで近隣ではあるけど、つながりのなかった五島美術館の方と最近お会いして、何か一緒にできることがないかと話し合ったり、新しい可能性も見えてきました。

―世田谷の美術館同士がつながっていくのは確かに面白いですね

そうですね。私は開館の準備の頃からこの美術館にいて、もうすぐ定年を迎えます。最後の最後にこんな状況になって大変だ、と思う一方で、自分がいる時にこうした状況になったのは、意味があるように思います。世田谷美術館は、地域の皆さんに愛されて、そして展示を通して、美術好きの方の信頼を積み重ねてきました。その流れを継続していかなければならない。

そして、世田谷美術館を特別に思ってくださる方がいること。またボランティアや美術大学などいろいろな形で美術館と関わってくださっている方々の存在のありがたさを再認識しました。

地域の美術館として、今できることを模索しながら、なんとかこの状況を乗り越えて、人間と芸術の本質的なつながりを問う、「素朴と芸術」という当館の伝統を受け継いでいければと思います。

館内のギャラリーショップでは区内ボランティア施設の方々が制作したマスクも売られていた。おしゃれだと来館者にも好評とのことだった。

世田谷美術館

■住所
〒157-0075 世田谷区砧公園1-2

■電話番号
03-3415-6011

■開館時間
10時〜18時(展覧会入場は17:30まで)

■休館日
月曜日(祝祭日の場合はその翌平日)

■URL
https://www.setagayaartmuseum.or.jp/

■アクセス
東急田園都市線用賀駅徒歩17分、用賀駅より美術館行バス「美術館」下車徒歩3分

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「かねはら整骨院」金原弘光氏インタビュー【世田谷とプロレスシリーズ3】

かねはら整骨院

過去2回にわたり、用賀とプロレスの意外な関係について書いてきた。
世田谷区の閑静な住宅街である、用賀の街に点在するプロレスの聖地ともいえる足跡の数々。

そんなこの町に、もう一つプロレスファンなら「おぉ!ここが!」と驚く場所がある。
それが用賀駅から徒歩6分の瀬田の交差点そばにある、かねはら整骨院だ。

こちらの院長である金原弘光氏は、UWFインターナショナル、キングダム、そしてリングス、PRIDEで活躍した現役のプロレスラー、格闘家なのだ。

1970年生まれの金原氏は、タイガーマスクに憧れてプロレスラーを目指して上京。新日本プロレス学校で山本小鉄氏の薫陶を受け、その後高田延彦氏率いるUWFインターナショナルに入団。プロレスラーが総合格闘技に挑戦していく時代の先駆者として、ミルコクロコップ、ノゲイラ、ヴァンダレイ・シウバなど、K-1などの舞台で活躍した猛者たちとも対戦。30年以上現役を続けてきたプロレス界の功労者でもある。

過去の記事で紹介した用賀駅の駅前にある焼き鳥店「市屋苑」のオーナーである鈴木健氏と同店で働く安生洋二氏とはUWFインターナショナル時代に同じ釜の飯を食った仲間となる。その金原氏が2016年に開院したのが、かねはら整骨院だ。

そんな金原氏に世田谷の思い出やUWFインター時代の話、そして現在の整骨院について話を伺った。

かねはら整骨院_金原弘光氏

土地勘のある世田谷で整骨院を開く

ーなぜ用賀で整骨院を開くことにしたんですか?

僕はもともと野毛にあった新日本プロレスの道場で山本小鉄さんがやっていた「新日本プロレス学校」に通っていたから、二子玉川とかに昔から馴染みが深かったんだよね。
18歳で上京した時に住んだ場所も砧本村という二子玉川からバスで行ったところだったし、それ以来、ずっとこの辺に住んできたから、整骨院を開くなら土地勘がある世田谷かなと思って、この場所にしました。

ー2016年に開院してから4年が経ちますがいかがですか?

最初はヒマな日も多かったから商売は難しいなと思ったけど、いまは予約で埋まるようになりました。そういう意味では、だいぶ安定してきたかなと思います。

ー通っている方にはプロレス関係者も多いのでしょうか?

おかげさまでプロレスラーや格闘技関係の方などたくさん来てもらっていますね。

ー「市屋苑」の鈴木さんや安生さんもこの街にいますが会うことはありますか?

たまに「市屋苑」に食事に行ったりしますよ。安生さんは僕の先輩ですから。あの人はすごい人ですよ。あの人がヒクソンの道場破りに行ってから格闘技の歴史が動きましたからね。

ー世田谷では全日本プロレスの川田利明さんがラーメン屋をやっていますが交流はありますか?

川田さんは、スポーツジムがむかし一緒だったから、交流があるし、川田さんのお店にも何回か食べに行きましたよ。

ーそこはつながっているんですね。ちなみにこの近所でよく行く店はありますか?

この辺だとまず二子玉川近辺ですね。通勤がバイクだし、18歳で上京した時に高島屋の掃除のバイトをやったり、二子玉川のとんかつ屋でバイトしてたので、やっぱり二子玉川が多いかな。あとはこの近所でも豚丼の「ブタリアン」とか環八沿いの「豊受オーガニクスレストラン」とかもよく行きますね。

プロレスを始めたきっかけはタイガーマスク

ーそもそもプロレスを始めたきっかけはなんですか?

もともとジャッキー・チェンが好きだったんだよね。それで映画の宣伝だと思うけど、ジャッキー・チェンとタイガーマスクが映っている写真を見て、そこでタイガーマスクを知って、当時は金曜日の20時にテレビでプロレスをやっていたから、そこでタイガーマスクを見るようになったのがきっかけ。あの頃はタイガーマスク、あと ダイナマイト・キッド を見てすごいなと思いましたね。それが小学校6年生ぐらいでした。

ー実際にプロレスの世界に入ったのはいつ頃ですか?

高校を卒業した後の18歳の時。東京に出てきて、新日本プロレスの入門テストとか受けるんだけど受からなくて、それから色々なテストを受ける中でUWFインターナショナルのテストを受けて、そこでようやく受かりましたね。
僕はあの団体の一期生になります。まだあの頃は団体全体でレスラーが10人ぐらいしかいなかった頃ですね。

ーそれだけ人数が少ないとけっこうすぐにデビューですか?

いやいや、最初はもう毎日すごい過酷な練習して雑用して、そんな日々を過ごして10カ月ぐらい経ってようやくデビューですね。それでも僕は早かった方ですけど。
いやーあの頃の練習はもう二度としたくないですね。あの時は20人テスト受けて4人受かって、その後残ったのは僕1人だけでしたからね。

僕の後輩は結局、40人、50人ぐらいいたけど、夜逃げしたりとか、なかには1日で逃げちゃう人もいましたよ。あの時代は上下関係も厳しいし、雑用もあるし、大変でしたよ。

当時は高田さんの付き人でしたから、お風呂に入れば背中を流しますし、すべてに気を使ってたから気の休まる時は無かったですね。高田さんの練習相手も僕です。もちろん偉大なレスラーですし、身体能力もすごくて、本当に光栄なことでしたけどね。

高田さんの付き人は、僕の後は高山くん(高山善廣氏)がやって、そのあとは桜庭(桜庭和志氏)が付き人をやってましたね。

ーUWFインターという存在をいま振り返ってみるといかがですか

やっぱりUWFという団体があったから、いま真剣勝負の世界ができたわけでUWFが無ければ、いまのRIZINとかPRIDEとかは無いですよね。その辺りの源流はUWFにあって、そのきっかけとなったのが、安生さんの道場破りなんですよね。

あの道場破りからPRIDEが始まって、そこから総合格闘技がメジャーになっていったわけですから。それはもう今となっては歴史なんだけど、僕はその真っ只中にいましたから。僕らの頃はルールも統一されてないし、体重別でもないし、無差別でなんでもありの時代でしたね。

いっぱいケガをしたから分かることがあるんです

ーなぜ整骨院をやろうと思ったんですか?

ぼくは30年以上現役生活を続ける中で、色々なケガをしてきました。それを治すための治療費もたぶん何千万とか使ってきましたし、治療のために日本全国色々なところに行きました。いまも指が曲がってますし、腱も切れてます。首のヘルニア、腰のヘルニアもやったので、そういう経験に基づいた治療をしています。

―ケガをたくさんしたから分かることも多いということですね

まぁしてないケガはないですからね(笑)。他の人とは経験値が違いますし、数々の治療を受けた経験も自分の中には残ってますので、それは活きてますよね。例えば整形外科に行っても薬の処方しかできないような人がいて、うちに通ってもらったら治ったりとか。そういうのは嬉しいですよね。

ーこちらに来られるお客さんの層はどんな割合ですか?

年齢層はバラバラですね。男性も女性も、みなさん来ます。ギックリ腰とか、首を寝違えたとか。あとはスポーツ選手も多いですね。部活で足を痛めたとか。

―そういう明確な自覚症状が無くても例えば体がだるい、とかで来る方はいますか?

友達の付き添いで来て、その友達が「あまりに良いからおまえもやってみろ」なんて言って、言われた人は「僕は痛いところないから」と言っていたのにやってみたら「体が軽い!」って驚いていた人がいましたね。

その時は骨を正しい位置に戻して、骨盤の位置も正しい位置にしたのですが、そうすると終わった時にぜんぜん違うわけですよ。あそこが痛い、ここが痛いという事が無くても、人間は日常生活で左右対称に使うわけではないですから、右でばっかり荷物持つとかしていれば、少しずつ体にズレは来ますよね。そういう気付かない歪みを正しい位置にするだけで、ぜんぜん違いますよ。


自らのケガの経験を活かした治療で用賀の街で多くの支持を得ている、かねはら整骨院。現在は完全予約制で営業を行っている。気になる方は連絡をしてみてはいかがだろうか。

かねはら整骨院

■住所
世田谷区玉川台2-1-15 矢藤第一ビル1F

■電話番号
03-3700-7713

■受付時間
10~13時、15~19時

■休診
火・木・土曜日の午後、祝日(日曜日が祝日の場合は月曜が休診日)
※現在は完全予約制、施術は金曜日は18:00まで、日曜日は17:00まで。時間外応相談。

■URL
http://kanehara-seikotsuin.com/

■アクセス
東急田園都市線用賀駅から徒歩約5分

世田谷とプロレスシリーズ

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世田谷歴史ミステリー第2話〜世田谷区岡本の「たたりの森」の謎を追え!【後編】

たたりの森後編メインビジュアル

前編では、世田谷区の砧公園のそばにある奇妙なカーブの理由が「たたりの森」と呼ばれた場所に原因があること。その地域の後に残されていた「第六天社跡」について紹介した。

後編では、このエリアに残るたたりの森の痕跡について書き進めていこうと思う。

たたりの森と砧大塚

このたたりの森の話を調べていて、ようやく分かったことがある。それは砧公園の中にある「砧大塚」という謎のこんもりした山のことだ。

砧公園の中にある砧大塚。かつて呪術が行われていたという。

公園の中に高さ4メートルぐらいの古墳のような山があるのだ。いつも大勢の子どもが登って遊んでいるのだが、その看板には、こんなことが書いてあった。

「この遺跡は、いわゆる古墳ではなく、修法の壇(仏教の呪術を行った祭壇)として造られたものらしく、もとの位置(東名高速の下)から約50メートル北のここに移設し、復元したものである」

この元の位置と、岡本のたたりの森は極めて近い場所にある。つまり、この二つは関連したワンセットと考えるほうが自然だろう。

砧大塚はかつて第六天社のそばにあったのだ

そうなってくると、また違う景色が見えてくる。

岡本の森には、第六天の神社があり、そこでは仏教の呪術が行われていた。辞書によると呪術とは「超自然的・神秘的なものの力を借りて、望む事柄を起こさせること」である。

村人が何を望んでいたのかは分からないが、そこには何か公にはできない、隠すべきものがあったのだろう。

村人はその森の中の隠すべきものを守るために「ここにはたたりがある!」と言って、人を寄せ付けなかったのではないだろうか。

その場合、そこには何が隠されていたのか。気になるのは、第六天に関する本に書かれていた「北条早雲が第六天を信仰していた」という話だ。

北条家といえば、歴史ミステリーの第1話で書いた通り、世田谷城の城主、吉良家がその力を頼った関東の大名。秀吉の小田原攻めで、吉良家は、現在の千葉県に逃げたとされている。だが、もしも北条家、吉良家の残党が岡本の森に逃げていたら……。

そうなると、世田谷城の抜け穴に置いておいた金銀財宝は、岡本の森に移送され、隠されたのではないか。そして、岡本の人たちは、彼らと宝を隠すために「ここにはたたりがある!」と喧伝し、人々を遠ざけたのではないだろうか。

そんな妄想が広がってしまうが、これはあくまで妄想である。岡本の郷土資料にいくら見てもそんな話は一切出てこない。

だが、たたりの森がある!=何かを隠していた、というのは、あながち間違いではないように思える。隠していたのは、人だったのか、物だったのか、そして彼らは呪術で何をしていたのか。

謎は深まるばかりだ。

現地はどうなっているのか

さて、ここまで郷土資料などをもとに書き進めていたが、実際に自転車で現地に行ってみることした。

環八沿いのニトリを通り越し、スターバックスを超えて、マクドナルドのある高速沿いの道を5分ほど進むと、ようやく到着した。

そこには、1本の木と切り株があった。第六天について書かれた本では、岡本のこの切り株には触っていけない、と書かれていた。もちろん触らない。

何か寒気がする、とか、そういうのは感じない。ただただ、不自然なカーブがある。それだけだった。向こうから来た車が急カーブを注意深く通り過ぎていく。

江戸時代にあった地元の因縁が今もこの道を通る人々に影響を与えているのだ。そう考えるとなんだか不思議になる。

それにしても触ってはいけない、という切り株の下には一体何があるのだろう――。

エピローグ~移転先の神社で見たものとは

岡本の第六天は、区画整理のために、昭和39年に近所の岡本八幡神社の境内にご神体を移している。ついでなので、その岡本八幡神社に行ってみた。

立派な神社の脇にある、細い道の奥に「第六天社」と刻まれていた小さな祠があった。これこそが、たたりの森にあった、第六天社なのだろう。とても、かわいらしい祠だった。

そこで手を合わせて、今回の物語は終わりのはずだった。

そう、実はこの神社、地元の人の間では、ちょっと知られている。それは入口の鳥居の裏にある灯篭の寄贈者が、某有名ミュージシャン夫婦だからだ。

ご近所さんなのか、この神社に縁があるだけなのかは分からない。だが、その想像を超えるビッグネームに驚いてしまうことだろう。

気になる方は、ぜひご自分の目で確かめてみてはいかがだろうか。

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世田谷歴史ミステリー第2話〜世田谷区岡本の「たたりの森」の謎を追え!【前編】

最初に上の地図を見てほしい。世田谷区の砧公園のそばにある直線の道路が、まるで何かを避けるように、三角形の鋭いカーブを描いている。不自然に曲がったこのカーブができた理由は「たたりの森」が存在したからだという。

「たたり」とは、一体どういうことだろう。グーグルマップを見ると「岡本第六天社跡」という文字が書かれている。

たたり? 第六天社? 一体どういうことだろうか……。

一つひとつ謎を解いていくために、まずは聞きなれない「第六天社」について調べてみることにした。

江戸時代に大流行した第六天神社

第六天という文字を見て、最初に思い浮かんだのは、織田信長が言ったとされる「第六天魔王」という言葉だ。

これは仏教徒を焼き討ちした信長に対して、武田信玄が信長宛ての手紙で「天台座主 沙門 信玄」と大げさな肩書付きで書いてきたので、信長が、何言ってやがる!とばかりに「俺は第六天魔王だ!」と手紙で返した、というエピソードから来ている。

言葉の意味はよくわからんが、とにかくすごい自信だ、と思っていたけど、よく考えたら第六天魔王ってなんだ?

調べてみると「第六天とは仏教における天のうち、欲界の六欲天の最高位にある他化自在天をいう」とあった。

分からない言葉が多いが、どうやら仏教用語のようである。さらに調べた結果を踏まえて、分かったことを書いてみたいと思う。

まず仏教の天敵は、煩悩である。煩悩とは除夜の鐘の「108つの煩悩」で知られる人間の欲のことである。美味しいものが食べたい、眠いから今すぐ寝たい、今日は家でゴロゴロしたい、やることがあっても遊びたい、それらは全て煩悩である。

そうした煩悩の世界を抜けた「悟り」を目指すのが仏教だとすると、その対極である快楽や欲の世界のトップに君臨するのが「第六天魔王」なのである。

だからこそ信長は、信玄が仏教の偉い人だ、といった時に、煩悩の世界のトップである、第六天を持ち出したのだ。

葛飾北斎の『釈迦御一代図会』で仏法を滅ぼすために釈迦と仏弟子たちのもとへ来襲した第六天魔王

さて、そんな仏教の敵である第六天だが、仏門に入っていない庶民からしたらどうだろう。なんなら、第六天を神様にしたら、「ご飯をたらふく食べるのも神様のため、昼まで寝ているのも功徳だ」なんて言って、第六天を持ち出すことで、煩悩、欲の世界を堪能することができるのだ。

これが実は江戸時代に大流行したのだ。特に東日本を中心に流行ったそうだ。確かに江戸っ子が好きそうな宗教だ。ということで関東の色々なところに「第六天神社」(場所によっては第六天社という名称)というのものが存在したという。

だが、現在はほとんど残っていない。同じく江戸時代に爆発的に流行した稲荷神社が今も残っているのに、なぜ第六天神社は残っていないのか。

その原因となったのが、明治の神仏分離にある。それまでの日本は神社と仏様を同じように扱っていたが、本来は別の宗教である。それらを整理整頓する流れの中で、第六天神社は名称を改称する、あるいは他の神社に合祀や相殿、末社になる、といった形で吸収されてその数を減らしていった。

また、伝説では第六天は、男女に対して自由に交淫・受胎させることができる力があるとされ、他人の楽しむ事を自由自在に自分の楽しみにかえる法力を持っている、という怪しいところもあったので、そういうのが「外国から見て恥ずかしくない日本に!」という明治の空気の中で良くなかったのかもしれない。

まとめると、第六天は、江戸時代に流行したが、明治に入るとぐっと数を減らした。

そんな第六天が、岡本にあったのだ。しかも「たたりの森」のあった場所に。第六天は、庶民に大人気だったので、たたりとセットになっているケースは、全国的に見ても非常に珍しいという。

それでは次に、この「たたりの森」とは一体なんなのか、どのような実害があったのか、そこを掘り下げてみたい。

たたりの森の木を切るとケガをする

世田谷区の岡本は、用賀インターの近くのマクドナルドの裏の辺りから二子玉川の方に広がるエリアである。

急な坂が多いのが特徴だが、緑が多く、丸子川や谷戸川のある風光明媚な場所として知られ、明治時代には、岩崎小弥太、鮎川義介、高橋是清など当時の政財界のトップの別邸が存在した。

世田谷区でも屈指の豪邸が立ち並ぶエリアであり、現在でも日本人なら誰でも知っている大物ミュージシャンが住んでいる、という噂もあるほどだ。

砧公園の近くのエリアである岡本だが、砧公園が開園したのは、戦後の1957年。そのずっと前、江戸時代のこの辺りは「第六天の森」と呼ばれる大きな森があったという。

そして、江戸時代、この森では草木一本切ることが許されなかったという。

しかも、この地域には、年貢のほかに妙な役目があった。それは将軍家が鷹狩で使用する御鷹用の餌である、昆虫のオケラを年貢と一緒に納める必要があったのだ。

ちなみに、オケラという名前はもともと「ケラ」だったが、将軍家に納めるものだから、丁寧な「オ」がついて、オケラになったという。

そうした中で、ある時、幕府から森の横の道を広げるようお達しがあった。村人はたたりの森の木を切ってはいけないと、取り下げを依頼するが、その願いは叶わず、工事をすることになってしまう。

しかし、いざ村人がナタやオノで木を切ろうとすると、次々にその道具によってケガをしてしまう人が続出し、その結果、幕府も工事を諦めてしまったそうだ。

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プロレスファンの聖地・焼き鳥「市屋苑」に行ってきた〜後編〜【世田谷とプロレスシリーズ2】

中編では鈴々舎馬るこ(れいれいしゃ まるこ)師匠のインタビューをたっぷりとお届けした。
最終話となる後編では安生洋二さん、鈴木健さんも登場し、落語とプロレスの共通点など、熱い話をお届けしよう。

安生洋二さんがあの人はバケモノと呼んだレスラーとは?

――いや~実際に安生さんが目の前にいると緊張しますね。馬るこ師匠どうですか?

馬るこ師匠、以下馬るこ)
僕も緊張しちゃいますね。

安生さん、以下安生)
俺も人見知りだから・・・。そしたら、MEGA角ハイボール飲みます? すごい大きいのに480円。お得なんですよ。

じゃあそれで、と頼むと、海賊のジョッキみたいなでかいビアグラスが出てきた。それを黙々と飲み、ようやく少し落ち着く。

――ここではどれぐらい働いているんですか?

安生)週に4日。いつかは独立したいと思っているんだけど、どれぐらい経ったら独立できるだろう(笑)、よく分からないね。

――なるほど。安生さんといえば、色々な事件(グレイシー道場破り事件、前田日明襲撃事件など)がありましたが、プロレス人生を振り返って一番思い出に残っていることはなんですか?

安生)う~ん、若手時代のジムで練習して、たまに先輩に小遣いをもらっていた、あの頃かな。

――え、結構色々なプロレス史に残る事件もありましたよね

安生)ああいうのは、団体を背負って動いていたし、言われてやっていたりと、自分の判断でも無かったから、辛いな、大変だな、という気持ちの方が大きかったかな。それよりも強くなることだけに没頭していた若手時代の方がいい思い出が残ってるね。

――現役時代には猪木さんをはじめ、高田延彦さんや前田日明さんなど色々な人と絡みがあったと思いますが、印象に残っている人はいますか?

安生)高田さんと、武藤敬司さん、この二人はもうバケモン。あとはアントニオ猪木さんもとんでもないバケモノ。普通のプロレスラーはスター性とか、強さとかを表す五角形でいうと、出ているところと引っ込んでいるところがあるんだけど、この人たちは真ん丸。こういうバケモノみたいな人たちを見ると、自分が試合でどう輝くかよりも、最後に登場するメインイベントの人たちのために、どういう試合をすべきか、ということを考えるようになりましたね。

馬るこ)ああ、それは落語も一緒です。トリのすごい人がいて、そこに向かって、みんなで流れを作っていく。プロレスも落語も個人のようで、団体なんですよね。興行なので。

安生)あ~そういうもんですか。落語も同じなんですね。僕はたまたま強かったんですけど、それでもあの3人を見ると、自分が凡人だと痛感しましたね。

馬るこ)そうですね。みんな自分はすごいと勘違いして、この世界に入るけど、バケモンみたいな人を見て、自らの凡人ぶりに気付くんですよね。

――なるほど~。ちなみに、ここのお店にはプロレスラーも来ますか?

安生)たまに来ますね。新日の鈴木みのるも年に2回ぐらい来て「先輩おごってくださいよ」なんて、一人じゃなくて、後輩も連れて、俺よりも稼いでるくせに(笑)。あとはライオネル飛鳥さんとか年に1回ぐらい来てくれますね。普通に「お~ライオネル飛鳥だ」ってなって何も言えないですね。

――UWFのテーマの許可は誰にとればいいですかね

安生)カール・ゴッチ(プロレスの神様)じゃないですかね?(笑)オーナーの鈴木に聞いてみてください。

ここでオーダーストップが終わった鈴木健さんが合流。入れ替わるように安生さんが席を後にした。

鈴木健さんは、もともと高田延彦さんの後援会長だったが、UWFが解散したときに、高田さんに独立を促し、自らも経営に加わって、UWFインターナショナルのスタッフとして活躍した人物である。

――お店の客層はプロレスファンが多いですか。

鈴木健さん、以下鈴木)いやいや、地元の人の方が多いかな。プロレスファンはすぐ分かりますね。だいたい着ているTシャツで分かります。埼玉から毎週来てくれる人もいるし、けっこう固定のファンが多いですね。

――鈴木さんはもともと用賀の文房具店を営まれていたんですよね。

鈴木)そう、用賀で生まれ育って65年。もともとは地域の文房具店だったから、地元の小学校とかにも納めていて年商も何億とかあったよ。もう潰れちゃったけど。

――この市屋苑の場所は、もともとUWFインターナショナルの事務所だったんですか?

鈴木)そう。うちが持っていた場所で、ここにグッズを置いたりしていた。

――用賀はプロレス関係者が多いですよね

鈴木)用賀といえばUWFでレフェリーをやっていた北沢幹之さん、現役時代は魁勝司(かいしょうじ)さんも用賀で、その関係でいまの駅ビルが建つ前に、あの場所にプロレスの特設リングを作って試合をやっていたよ。

――全日本プロレスの川田利明さんのラーメン店「麺ジャラスK」も、砧公園の方ですよね。

鈴木)この辺は多いんですよ。世田谷全体に散らばっている感じだね。UWFインターナショナルの金原も用賀でかねはら整骨院をやっているし。

――いま振り返るとプロレスに関わった時間はどうでしたか?

鈴木)楽しかったね~。いま思い出しても楽しい思い出。

馬るこ)すいません。実はわたくしは、出囃子で「UWFのテーマ」を使っているんですけど、使用許可をとっておらず、できれば今日許可を取れればと思うのですが。

鈴木)嬉しいね。落語家でそうやって使ってくれる人がいるなんて。もちろん大丈夫ですよ。

馬るこ)ありがとうございます!

落語家と元プロレスラーとの夜を終えて

こうして、落語家と元プロレスラーの邂逅という不思議な夜が終わった。海賊のジョッキでハイボールを飲んで以来、時間が早く過ぎてしまい、いつの間にか時計は12時を回っていた。

安生さんと馬るこ師匠の二人が語った、凡人とバケモノの話は非常に興味深く、そのうえで落語で言えばトリ、プロレスならメインという「バケモノ」レベルの人たちのためにチームプレーで興行を成功させていく、という意外な共通点も知ることができた。

それにしても、安生さんは元プロレスラーと言われなければ分からないほど穏やかな方で、驚いてしまった。一方、鈴木健さんはとても65歳とは思えないほど力強いエネルギーを発していて、ああ、こういう人が一緒にやろうよ!と言ったから高田延彦さんは、団体設立を決めたんだな、とやけに納得してしまった。

さて肝心の安生さんの焼いた焼き鳥だが、これがぜんぶ美味しかった!焼き鳥以外も全てレベルが高くて、ボリュームもあり、酒飲みの心を分かっているメニューが揃っていた。

そして、安生さんのイチオシのMEGA角ハイボールはお得なので、おすすめだ。

我々との話が終わった安生さんはお客さんと記念撮影をし、トイレの壁にはあの「1億円トーナメント」の写真が飾られていた。

ここはやはりプロレスファンの聖地であり、もしもプロレスファンでなくても、十分楽しめるステキなお店だと思う。

用賀に来た際はぜひ立ち寄ってみてはいかがだろうか。

焼き鳥以外にもお酒に合うメニューが揃っている

市屋苑

■住所
東京都世田谷区用賀4-14-2 2F

■電話番号
 03-3707-3223

■アクセス
東急田園都市線用賀駅から徒歩約5分

世田谷とプロレスシリーズ

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プロレスファンの聖地・焼き鳥「市屋苑」に行ってきた〜中編〜【世田谷とプロレスシリーズ2】

前編では市屋苑(いちおくえん)と鈴々舎馬るこ(れいれいしゃまるこ)師匠の関係を紹介した。
今回は、馬るこ師匠のプロレス少年だった頃の話、そして落語家になったきっかけについて話を伺った。

プロレスとの出合い

――最初にプロレスを見たのはいつですか?

僕は1980年に山口県で生まれたんですけど、小さい頃は山口にはプロレス中継がなくて、中学生の時にようやくプロレス中継が始まったんですね。当時、新日本プロレスには武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の闘魂三銃士の全盛期。特に蝶野選手がかっこよかったですね!

――ご自身の出囃子が「UWFのテーマ」ですけどUWFについてはどうですか?

UWFはテレビ中継がなく、当時はビデオを買うしかなかったのですが、値段が高くて(1万円以上)ほとんど見てないので、雑誌で動向を知るぐらいしかなかったですね。ただ、UWFが三銃士のいる新日と交流戦をやる時があり、そこで初めて「UWFのテーマ」を聞いて心を奪われました。

――落語の出囃子でプロレスのテーマというのは異例ですよね

そうですね。寄席で出囃子を演奏する女性たちがいるんですけど、落語界では、その方たちが新人の出囃子を決める、というのが多かったりするんです。けど、僕はこの曲が好きだったので、自分で楽譜作ってお願いに行きました

――やってくれました?

う~ん、嫌がられましたね(笑)。ただ、基本的に落語協会がJASRACにお金を払っているので、何の曲を使ってもいいことになっているんです。ただ実はUWFのテーマを使う筋を通してないんですよ。だから、今日は事後承諾だけど、使用許可をもらおうかなと。

――なるほど。いまもプロレス観戦はするんですか?

いまは新日のリングにも出ている飯伏幸太とか、ジュニア級の試合を見ることが多いですね。

美味しいタレとマッチした焼き鳥の焼き具合も含めて絶品だった。

お笑いから落語の世界へ

――続いて落語の話を聞かせてください。最初に落語の世界に入ったきっかけは?

僕が落語の世界に入ったのは、2003年なのですが、その前はお笑い芸人として活動していました。もともと、ダウンタウンが大好きで、大学に入るために上京したのですが、在学中に、雑誌の相方募集などを見ながらコンビを組んでお笑いのライブに出たりしていました。

――お笑い芸人から落語というのはどういう流れなんですか?

最初はコンビを組んでやっていたのですが、どうもコンビというのが合わなくて、ピンでやるようになったんですね。その後、事務所にも所属できて、テレビ番組のお手伝いなんかをやったりして、上手くいっていたので、大学も中退してしまったんですけど、事務所がいきなり解散してしまうんですね。

――え、いきなりですか

いきなりです。それでふと自分には何も無いなと。一方で、他の人は「おれ10人人集めます」といえば、人を集めるような人脈があったりする。それを見ていて、ふと落語家の修行がいいなと思ったんです。もともとピン芸の勉強のために、一人でやる話芸である落語は見ていたのですが、その中でも「落語の修行」というものに憧れて、落語家を目指したんです。

――それも変わってますね

落語家の弟子になるならだれがいいだろう、と色々な人を見て、寄席で一番爆笑をとっていたのが、今の師匠である鈴々舎馬風(ばふう)師匠でした。

――弟子の修業は大変でしたか?

もう箸の上げ下げから直されますから、本当に厳しかったですね。僕の場合は、おかみさんに厳しく言われた、という思いがあります。それであまりに辛くてある日、脱走をするんですね。

――どこに行ったんですか?

葛西臨海公園です。海が見たくて、レンタカー借りて。3日ぐらいで帰りました。

――師匠に見つかったんですか?

僕は当時師匠の家のネコの世話もしていたので、そのネコが死んだらまずいと思ってこっそり帰ったら見つかりました。そこでおかみさんが「厳しくしすぎた、ごめんね。あんたにNHK演芸新人賞を取って欲しくて、厳しくしたんだ」と初めて本心を明かしてくれたんです

――そのあと、2013年にNHK新人演芸大賞落語部門大賞を取ってますよね。

あの時は演目を大会用に磨き上げて臨みました。受賞した時は、やっぱりおかみさんが本当に喜んでくれましたね。

――その後、2016年からフジロックで毎年落語をやってますよね

あれはフジロック側が落語をやりたい、という話が落語協会にあって、誰もやりたがらなかったけど「馬るこならやるだろう」って話が回ってきたんです。

――私も現場で見ましたけど、あれは落語を聞きに来た人というより、屋根があるから雨宿りでいるみたいなところもあるから大変じゃないですか?

唯一の屋根があるところですからね(笑)。落語には、求心力と遠心力があって、噺の世界にぐっと引き込むのが求心力なんですけど、ああいう場で必要なのは場にいる人全部を巻き込む遠心力なんですよね。

――ああいうフジロックに出るところも含めて、馬るこさんはやはり異色ですよね。プロレスでいうと、師匠たちが普通のプロレスなら一人だけ「ルチャリブレ」(メキシコのエンターテイメント性が高いプロレス)みたいな(笑)

好き好んでというよりは、それしかできない、というか、来た仕事断らないですから、気付いたら色々な仕事をやってるんです。

――落語ブームと言われてますが、中の人間としてはどう見てますか?

僕が知っている最初のブームは2005年のドラマ「タイガー&ドラゴン」でした。あの頃は、落語と名前が付けばなんでも良かった。でも、いまはあの時とは違いますね。落語の中身、芸人の質にこだわって、お客さんも分かって見に来ているような感じです。

――落語をやる面白さはどういうところにあるんですか?

例えば、能の世界だと、幽霊の動きが「速い」という表現をするために、舞台上で人間の速さを1/5にしたんですね。人間を遅くすることで、幽霊が速く動く、ということを伝えた。そういう時間を操る技法が能にはある。一方で落語は、右を向いて「おい、おまえさん」とやって、左を向いて「なんだい」とやれば、会話がつながる。時間ではなく、空間を省略することができる。その落語の観念の世界を使いながらどう作品に落とし込むのか、そういうことを考えながら落語を作ってますね。

そして、ここで鈴木健さんが登場。短い金髪に鍛え抜かれた体で颯爽と登場した鈴木さんは、馬るこさんが持参した本にサインをすると、すぐに記念撮影。その勢いのまま、焼き場に入り、安生さんが席にやってきた。

65歳とは思えないほどエネルギッシュな鈴木健さん

【安生洋二さん、鈴木健さんが登場!後編に続く】

市屋苑

■住所
東京都世田谷区用賀4-14-2 2F

■電話番号
 03-3707-3223

■アクセス
東急田園都市線用賀駅から徒歩約5分

世田谷とプロレスシリーズ

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プロレスファンの聖地・焼き鳥「市屋苑」に行ってきた〜前編〜【世田谷とプロレスシリーズ2】

東急田園都市線の用賀駅にプロレスファンが集う焼き鳥店がある。

その名は「市屋苑(いちおくえん)」。オーナーは、元UWFインターナショナルというプロレス団体の経営陣の一人、鈴木健(すずき けん)さん。

そしてこの店で現在週に4日間、焼き鳥を焼いているのが、同団体所属レスラーだった安生洋二(あんじょう ようじ)さんだ。

なぜ用賀にこんなお店があるかの詳細は、以前書いた「用賀とプロレスの意外な関係」を読んでもらえればと思うが、かいつまんで言うと、かつて用賀にプロレス団体の事務所があったのだ。その団体は、高田延彦さんを中心にしたUWFインターナショナルという団体であり、彼らを有名にした出来事が「1億円トーナメント」の開催だった。M-1グランプリですら1000万円の賞金なのに、大盤振る舞いの1億円を賞金にして、各団体に参加を呼び掛けたのだ。

結局、どの団体も参加せず、大会は不成立に終わり、1億円の借金だけが残ってしまった。それを返済するために始めたのが、この「市屋苑(いちおくえん)」というお店だった。

プロレスファンにとっては「あの1億円トーナメントか!」となるお店であり、地元の人には美味しい焼き鳥店として親しまれている、こちらのお店を訪問することにした。

プロレス好きの落語家と訪れた焼き鳥の名店

今回の企画は、当初「有名人と行く世田谷のお店」という内容だった。
例えば、落語家がよく行くお蕎麦屋さんを教えてもらい、江戸情緒を味わう、というイメージだ。

だが、お願いした落語家がプロレス好きだったことから、「用賀の市屋苑に行きましょう」という話になったのだ。

その結果、落語の話と、プロレスの話と、市屋苑が混ざりあうバトルロワイヤルのような展開になってしまった。

時間の経過としては来店後2時間ほどで安生さんがテーブルに登場、安生さんが帰り、鈴木健さんが登場、という流れになっている。

安生さんと一緒に海賊のような大きなジョッキでハイボールを飲んで以降はややあやしいが、できるだけあの夜のやりとりを落語家へのインタビュー編と、プロレス編に分けてお伝えしたいと思う。

出囃子がUWFの落語家・鈴々舎馬るこ(れいれいしゃまるこ)

さて、今回登場してもらった落語家は、出囃子が「UWFのテーマ」というかなり偏ったプロレスファンである鈴々舎馬るこ師匠である。

2017年3月に真打になった鈴々舎馬るこ師匠は、「イタコ捜査官メロディー」など変わった創作落語もやりつつ、古典落語の改作を中心に初めて落語を聞いた人から通までをうならせる、爆笑タイプの落語家。

私が馬るこ師匠を「すごい!」と思ったのは、まだ真打になる前の「二つ目」と呼ばれる修行時代、池袋演芸場の出番の時に急に婚姻届けを出して、「受け取った人は僕と結婚してください!」と叫んで会場に投げて、年輩の男性が拾って二人で見つめあう、という場面を見たときだった。

そんな破天荒な一面がありつつ、落語家にとってM-1グランプリに匹敵するといわれる「NHK新人演芸大賞」も受賞している実力派である。

現在は笑点の若手大喜利に出演するなど、有望株として知られ、今後のさらなる活躍が期待されている。

さて、19時半、用賀で待ち合わせをした我々でろかるスタッフと馬るこ師匠がお店を訪れる。

店内にあるプロレスのポスターをじっくり見た馬るこ師匠。

ようやく席につくと、まずはプロレスとの出合いについて聞いてみることにした。

【お笑い芸人から落語家への転身~馬るこ師匠のインタビュー編に続く】

市屋苑

市屋苑(いちおくえん)外観

■住所
東京都世田谷区用賀4-14-2 2F

■電話番号
 03-3707-3223

■アクセス
東急田園都市線用賀駅から徒歩約5分

世田谷とプロレスシリーズ

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用賀とプロレスの意外な関係 〜 後編〜【世田谷とプロレスシリーズ1】

市屋苑(いちおくえん)外観

前編中編と、用賀とプロレスの関係を解いてきた本連載。
最後はUWFインターナショナル設立からの歩み、そしてプロレス史に残る数々の出来事を紹介しよう。

UWFインターナショナルのその後

プロレスの格闘技路線を推し進めた第二次UWFだったが、結局、前田日明の「リングス」、藤原喜明の「プロフェッショナルレスリング藤原組」、そして高田延彦の「UWFインターナショナル」へと分かれていく。

「UWFインターナショナル」は、かつてのアントニオ猪木のように高田延彦というスターを中心に据えて興行を行っていった。だが、スター選手の頭数は足りない。それを乗り越える方法が、現在の「炎上商法」に近い過激な演出だった。

その中の有名な事件の一つが「1億円トーナメント」だった。

ある人には事前に伝え、ある人には全く言わない、入念な仕込みとガチを織り交ぜながら演出を行っていくプロレスの世界にあって、「1億円トーナメント」は全くのガチ、寝耳に水だった。

「若手社員の思い付き」から、ある日突然、机の上に1億円を並べ、各団体の有名選手への挑戦状を手にした鈴木健氏が、団体を超えたトーナメント戦の開催を宣言したのだ。

このお金はすべて借金であり、付き合いのある信用金庫などからかき集めたものだったという。専門誌の表紙を飾り、大きな話題を集めた「1億円トーナメント」は根回しをしてないので、失敗に終わったが、「さすがUWFインターナショナル!またやってくれた」と言われたプロレス界の大事件だった。

だが、こうした演出に激怒していた人物がいる。当時、新日本プロレスでマッチメイクを担当し、「現場監督」と呼ばれていた長州力だ。

レスラーとしても絶頂期にありながら、客席をいかに沸かすかを考えていた長州にとって、当時のUWFインターナショナルの行動は「不確定要素」であり、雑音のようなものだったのだろう。

そんな長州力と、UWFの刺客、安生洋二が交流試合で対戦したのが、1995年の東京ドームだった。

日頃の遺恨から怒っているように見えた長州だが、試合後のインタビュアーの「キレましたか?」の質問に対して「キレちゃいないよ」とコメント。

後にこれがお笑いタレント長州小力によってモノマネされ、有名な言葉となる。

そして、UWFが残したもう一つの出来事が「グレイシー道場破り事件」である。

当時、格闘技界に激震が走る出来事があった。ある大会でいきなりグレイシー柔術という謎の武術団体のホイス・グレイシーという選手が優勝したのだ。

その情報はUWFインターナショナルまで届き、「プロレスこそ最強」をうたう彼らは、すぐさま反応。またもや刺客である安生洋二をロサンゼルスのグレイシー道場に送り込む。

ロサンゼルスに着いてからの流れについては諸説がある。

前日の忘年会でかなり酔っていた、飛行機でお酒を飲みすぎてしまったが着いてすぐに道場にいった、交渉係のつもりが、事前にきちんと話し合いが行われなかったのでいきなり試合になった、など色々な理由はあるが、結果として安生洋二は敗れ、血まみれになり、それが専門誌の表紙を飾る事件となってしまう。

当時の安生洋二は、道場でもかなり強い選手として知られていた。そのため、この敗戦は偶然の出来事なのか、本当にグレイシーは強いのか、という議論をよんだ。

その決着をつけるために、3年後、高田延彦とグレイシーが第1回目となる「PRIDE」で戦い、高田延彦が破れ、プロレス最強伝説に疑問符が付いてしまう。

その後にUWFインターナショナルの若手レスラーだった、桜庭和志が「グレイシーハンター」として次々にグレイシー一族を破る、という名勝負が生まれ、プロレスファンの留飲を下げたのだった。

そうした総合格闘技が生まれる前夜に起きた、プロレス界の大きな出来事である、1億円トーナメントや長州力の「キレちゃいないよ」発言、グレイシー一族対プロレスの戦いはすべて、UWFインターナショナルが起こした出来事であり、UWFインターナショナルが1996年に解散した後も、しっかりとプロレス史に刻まれているのだ。

そんなかつての「UWFインターナショナル」の事務所は、現在、焼き鳥店となっている用賀の「市屋苑(いちおくえん)」の場所だった。

世田谷とプロレス_市屋苑

勘が良い方は気付いているかもしれないが、この「市屋苑」という変わった店名の由来は、あの一億円トーナメントから来ているのだ。

この店は、高田延彦に新団体設立を決意させた男、鈴木健氏がオーナーを務める店であり、UWFインターナショナルの刺客だった安生洋二は、現在週に4日焼き鳥を焼いている。

さらに同じくUWFインターナショナルに所属していた金原弘光も「かねはら整骨院」を用賀に開設するなど、いまなお用賀にはプロレス、特にUWFインターナショナルの足跡がそこかしこに残されているのだ。

世田谷とプロレス_かねはら整骨院

現在は静かな住宅街である用賀の街だが、かつてはプロレスラーたちが行き来し、書店で偶然出会って立ち話をしたり、みんなが知っているお店で団体の未来について語り合っていたのだ。

もはやプロレスの聖地と言っても過言ではない、用賀の街で聖地巡りをしてみてはいかがだろうか。

用賀・二子玉川プロレスマップ

年表で見る用賀とプロレス

 

1984年2月

タイガーマスクを引退した佐山聡が、世田谷区瀬田にタイガージムを設立

1984年3月

第1次UWFが設立(用賀の道場で練習を重ねる)

1985年12月

UWFと新日本プロレスが業務提携

1988年2月

前田日明が長州力の顔面を蹴った事件で解雇される

1988年5月

第2次UWFが設立

1990年12月

第2次UWF解散

1991年1月

前田宅での打ち合わせで意見が分かれ、前田日明が解散を宣言

1991年1月

解散後について安生洋二、宮戸優光の両レスラーが高田延彦に連絡し、二子玉川のつばめグリルで話し合い新団体設立を説得する

1991年1月

用賀の文房具店の鈴木健氏が高田延彦に独立をうながす

1991年5月

UWFインターナショナルが用賀で設立される

世田谷とプロレスシリーズ

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