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プロレスファンの聖地・焼き鳥「市屋苑」に行ってきた〜前編〜【世田谷とプロレスシリーズ2】

東急田園都市線の用賀駅にプロレスファンが集う焼き鳥店がある。

その名は「市屋苑(いちおくえん)」。オーナーは、元UWFインターナショナルというプロレス団体の経営陣の一人、鈴木健(すずき けん)さん。

そしてこの店で現在週に4日間、焼き鳥を焼いているのが、同団体所属レスラーだった安生洋二(あんじょう ようじ)さんだ。

なぜ用賀にこんなお店があるかの詳細は、以前書いた「用賀とプロレスの意外な関係」を読んでもらえればと思うが、かいつまんで言うと、かつて用賀にプロレス団体の事務所があったのだ。その団体は、高田延彦さんを中心にしたUWFインターナショナルという団体であり、彼らを有名にした出来事が「1億円トーナメント」の開催だった。M-1グランプリですら1000万円の賞金なのに、大盤振る舞いの1億円を賞金にして、各団体に参加を呼び掛けたのだ。

結局、どの団体も参加せず、大会は不成立に終わり、1億円の借金だけが残ってしまった。それを返済するために始めたのが、この「市屋苑(いちおくえん)」というお店だった。

プロレスファンにとっては「あの1億円トーナメントか!」となるお店であり、地元の人には美味しい焼き鳥店として親しまれている、こちらのお店を訪問することにした。

プロレス好きの落語家と訪れた焼き鳥の名店

今回の企画は、当初「有名人と行く世田谷のお店」という内容だった。
例えば、落語家がよく行くお蕎麦屋さんを教えてもらい、江戸情緒を味わう、というイメージだ。

だが、お願いした落語家がプロレス好きだったことから、「用賀の市屋苑に行きましょう」という話になったのだ。

その結果、落語の話と、プロレスの話と、市屋苑が混ざりあうバトルロワイヤルのような展開になってしまった。

時間の経過としては来店後2時間ほどで安生さんがテーブルに登場、安生さんが帰り、鈴木健さんが登場、という流れになっている。

安生さんと一緒に海賊のような大きなジョッキでハイボールを飲んで以降はややあやしいが、できるだけあの夜のやりとりを落語家へのインタビュー編と、プロレス編に分けてお伝えしたいと思う。

出囃子がUWFの落語家・鈴々舎馬るこ(れいれいしゃまるこ)

さて、今回登場してもらった落語家は、出囃子が「UWFのテーマ」というかなり偏ったプロレスファンである鈴々舎馬るこ師匠である。

2017年3月に真打になった鈴々舎馬るこ師匠は、「イタコ捜査官メロディー」など変わった創作落語もやりつつ、古典落語の改作を中心に初めて落語を聞いた人から通までをうならせる、爆笑タイプの落語家。

私が馬るこ師匠を「すごい!」と思ったのは、まだ真打になる前の「二つ目」と呼ばれる修行時代、池袋演芸場の出番の時に急に婚姻届けを出して、「受け取った人は僕と結婚してください!」と叫んで会場に投げて、年輩の男性が拾って二人で見つめあう、という場面を見たときだった。

そんな破天荒な一面がありつつ、落語家にとってM-1グランプリに匹敵するといわれる「NHK新人演芸大賞」も受賞している実力派である。

現在は笑点の若手大喜利に出演するなど、有望株として知られ、今後のさらなる活躍が期待されている。

さて、19時半、用賀で待ち合わせをした我々でろかるスタッフと馬るこ師匠がお店を訪れる。

店内にあるプロレスのポスターをじっくり見た馬るこ師匠。

ようやく席につくと、まずはプロレスとの出合いについて聞いてみることにした。

【お笑い芸人から落語家への転身~馬るこ師匠のインタビュー編に続く】

市屋苑

市屋苑(いちおくえん)外観

■住所
東京都世田谷区用賀4-14-2 2F

■電話番号
 03-3707-3223

■アクセス
東急田園都市線用賀駅から徒歩約5分

世田谷とプロレスシリーズ

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用賀とプロレスの意外な関係 〜 後編〜【世田谷とプロレスシリーズ1】

市屋苑(いちおくえん)外観

前編中編と、用賀とプロレスの関係を解いてきた本連載。
最後はUWFインターナショナル設立からの歩み、そしてプロレス史に残る数々の出来事を紹介しよう。

UWFインターナショナルのその後

プロレスの格闘技路線を推し進めた第二次UWFだったが、結局、前田日明の「リングス」、藤原喜明の「プロフェッショナルレスリング藤原組」、そして高田延彦の「UWFインターナショナル」へと分かれていく。

「UWFインターナショナル」は、かつてのアントニオ猪木のように高田延彦というスターを中心に据えて興行を行っていった。だが、スター選手の頭数は足りない。それを乗り越える方法が、現在の「炎上商法」に近い過激な演出だった。

その中の有名な事件の一つが「1億円トーナメント」だった。

ある人には事前に伝え、ある人には全く言わない、入念な仕込みとガチを織り交ぜながら演出を行っていくプロレスの世界にあって、「1億円トーナメント」は全くのガチ、寝耳に水だった。

「若手社員の思い付き」から、ある日突然、机の上に1億円を並べ、各団体の有名選手への挑戦状を手にした鈴木健氏が、団体を超えたトーナメント戦の開催を宣言したのだ。

このお金はすべて借金であり、付き合いのある信用金庫などからかき集めたものだったという。専門誌の表紙を飾り、大きな話題を集めた「1億円トーナメント」は根回しをしてないので、失敗に終わったが、「さすがUWFインターナショナル!またやってくれた」と言われたプロレス界の大事件だった。

だが、こうした演出に激怒していた人物がいる。当時、新日本プロレスでマッチメイクを担当し、「現場監督」と呼ばれていた長州力だ。

レスラーとしても絶頂期にありながら、客席をいかに沸かすかを考えていた長州にとって、当時のUWFインターナショナルの行動は「不確定要素」であり、雑音のようなものだったのだろう。

そんな長州力と、UWFの刺客、安生洋二が交流試合で対戦したのが、1995年の東京ドームだった。

日頃の遺恨から怒っているように見えた長州だが、試合後のインタビュアーの「キレましたか?」の質問に対して「キレちゃいないよ」とコメント。

後にこれがお笑いタレント長州小力によってモノマネされ、有名な言葉となる。

そして、UWFが残したもう一つの出来事が「グレイシー道場破り事件」である。

当時、格闘技界に激震が走る出来事があった。ある大会でいきなりグレイシー柔術という謎の武術団体のホイス・グレイシーという選手が優勝したのだ。

その情報はUWFインターナショナルまで届き、「プロレスこそ最強」をうたう彼らは、すぐさま反応。またもや刺客である安生洋二をロサンゼルスのグレイシー道場に送り込む。

ロサンゼルスに着いてからの流れについては諸説がある。

前日の忘年会でかなり酔っていた、飛行機でお酒を飲みすぎてしまったが着いてすぐに道場にいった、交渉係のつもりが、事前にきちんと話し合いが行われなかったのでいきなり試合になった、など色々な理由はあるが、結果として安生洋二は敗れ、血まみれになり、それが専門誌の表紙を飾る事件となってしまう。

当時の安生洋二は、道場でもかなり強い選手として知られていた。そのため、この敗戦は偶然の出来事なのか、本当にグレイシーは強いのか、という議論をよんだ。

その決着をつけるために、3年後、高田延彦とグレイシーが第1回目となる「PRIDE」で戦い、高田延彦が破れ、プロレス最強伝説に疑問符が付いてしまう。

その後にUWFインターナショナルの若手レスラーだった、桜庭和志が「グレイシーハンター」として次々にグレイシー一族を破る、という名勝負が生まれ、プロレスファンの留飲を下げたのだった。

そうした総合格闘技が生まれる前夜に起きた、プロレス界の大きな出来事である、1億円トーナメントや長州力の「キレちゃいないよ」発言、グレイシー一族対プロレスの戦いはすべて、UWFインターナショナルが起こした出来事であり、UWFインターナショナルが1996年に解散した後も、しっかりとプロレス史に刻まれているのだ。

そんなかつての「UWFインターナショナル」の事務所は、現在、焼き鳥店となっている用賀の「市屋苑(いちおくえん)」の場所だった。

世田谷とプロレス_市屋苑

勘が良い方は気付いているかもしれないが、この「市屋苑」という変わった店名の由来は、あの一億円トーナメントから来ているのだ。

この店は、高田延彦に新団体設立を決意させた男、鈴木健氏がオーナーを務める店であり、UWFインターナショナルの刺客だった安生洋二は、現在週に4日焼き鳥を焼いている。

さらに同じくUWFインターナショナルに所属していた金原弘光も「かねはら整骨院」を用賀に開設するなど、いまなお用賀にはプロレス、特にUWFインターナショナルの足跡がそこかしこに残されているのだ。

世田谷とプロレス_かねはら整骨院

現在は静かな住宅街である用賀の街だが、かつてはプロレスラーたちが行き来し、書店で偶然出会って立ち話をしたり、みんなが知っているお店で団体の未来について語り合っていたのだ。

もはやプロレスの聖地と言っても過言ではない、用賀の街で聖地巡りをしてみてはいかがだろうか。

用賀・二子玉川プロレスマップ

年表で見る用賀とプロレス

 

1984年2月

タイガーマスクを引退した佐山聡が、世田谷区瀬田にタイガージムを設立

1984年3月

第1次UWFが設立(用賀の道場で練習を重ねる)

1985年12月

UWFと新日本プロレスが業務提携

1988年2月

前田日明が長州力の顔面を蹴った事件で解雇される

1988年5月

第2次UWFが設立

1990年12月

第2次UWF解散

1991年1月

前田宅での打ち合わせで意見が分かれ、前田日明が解散を宣言

1991年1月

解散後について安生洋二、宮戸優光の両レスラーが高田延彦に連絡し、二子玉川のつばめグリルで話し合い新団体設立を説得する

1991年1月

用賀の文房具店の鈴木健氏が高田延彦に独立をうながす

1991年5月

UWFインターナショナルが用賀で設立される

世田谷とプロレスシリーズ

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用賀とプロレスの意外な関係 〜中編~【世田谷とプロレスシリーズ1】

前編では前田日明とタイガーマスクの出会いから、UWFと用賀の練習場までを紹介した。
中編ではUWF解散から新たな団体設立までを紹介しよう。

UWF解散と二子玉川のつばめグリル

そんなUWFのコンセプトは、革新的ではあったが、関節の極めあいを中心とした戦いはやはり地味だった。またテレビ放映がないことも大きく、次第に団体運営は行き詰ってしまう。

そして、UWFは新日本に業務提携という形で合流する。しかし、蹴りなどを多用していた彼らを新日本のレスラーは警戒。2年間の提携期間の後に転機となる事件が起こる。

前田日明が試合中に長州力の顔面に蹴りを入れ、長州力が重症を負ってしまう。これに対して新日本プロレスは前田日明を解雇処分としたのだった。

これを機に、業務提携中だったUWFの面々は、再び独立を果たす。

これが第二次UWFの始まりだった。

かつては「猪木が来ると思ったら来なかったから、残ったメンバーで手探りで試合をしていた」彼らだったが、第二次UWFは、自らの意思をもって興行をうっていった。

その後、UWFは熱狂的な人気を得ることとなる。テレビ中継はないものの、試合のビデオを販売し、全国の会場は超満員となった。客席には、糸井重里などトレンドに敏感な人が集まり、「UWF信者」と呼ばれる人たちが集まり、中心人物である前田日明は、当時流行の最先端だったパルコの宣伝に登場するなど、時代を象徴する人物となっていった。

それだけの人気を集めた彼らだが、それが悪い方向に向かってしまう。レスラー側が興行収益をスタッフが使い込んでいると訴え、団体が活動を停止してしまったのだ。

そして、中心人物の前田日明は、自分たちで新しい団体を作ろうと選手を自らの部屋に集める。

「みんなで一致団結してがんばろう」という決起集会のつもりだった前田日明に対して、自分たちの「職場」が無くなった選手たちは動揺を隠せない。

さらに当時は「メガネスーパー」の社長がプロレスにハマり、新団体を設立。そこが選手たちに大金を用意して勧誘しているという噂もあった。

上の人間と下の人間が見えている景色の違いもあり、意見はまとまらず、決起集会のはずが前田日明の口から解散が告げられてしまう。

その後、UWFに所属していた各選手が今後に向けて動いていく中で、若手レスラーの安生洋二と宮戸優光が話し合いを行う。

一方、当時用賀に住んでいた高田延彦は、途方に暮れ、自らのファンクラブの会長であり、用賀で文房具店を営んでいた鈴木健氏に相談すると「良い機会だから独立して自分の団体を作るべきだよ」と言われる。

そして、安生洋二、安生洋二の両選手が「話したいことがある」と高田延彦に声をかけ、3人が集まったのが、二子玉川玉島屋の「つばめグリル」だった。そして、この話し合いの結果、ファンクラブ会長の鈴木健氏を経営陣に加えて設立されたのが「UWFインターナショナル」という新たな団体だったのだ。

UWFが解散し、これからどうするのか社内で何度も話し合う中で藤原喜明は「用賀の原っぱで試合をすればいいよ」とみんなに語ったという。実際に現在の用賀の駅ビルである、ビジネススクエアが建つ前には、あの場所にプロレスのリングを設置し、特別試合も行われていたという。

「UWFインターナショナル」の事務所は、鈴木健氏が管理していた用賀駅のそばの建物の2階だった。事務所とはいえ、「UWFインターナショナル」というプロレス団体が用賀に存在していたのだ。

【後編に続く】

世田谷とプロレスシリーズ

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用賀とプロレスの意外な関係 〜前編 〜【世田谷とプロレスシリーズ1】

東急田園都市線の用賀駅は、二子玉川の隣にある、静かな住宅街という雰囲気の街である。
だが、この用賀の街がプロレスの歴史の中でたびたび重要な舞台として登場する。

例えば、プロレス団体が解散の危機に陥った時に、藤原組長で知られる藤原喜明は「用賀の原っぱでプロレスやればいいだろ!」と言い放った、というエピソードが残されている。

なぜ、ここで用賀が登場するのだろうか。

用賀とプロレス、一見無関係に見える、この2つをつなぐ話について紹介したいと思う。

タイガーマスクのジムは瀬田にあった

かつて日本のプロレス界に、タイガーマスクというレスラーが存在したことは、プロレスファン以外でも知っている人が多いだろう。

もともとは梶原一騎原作のマンガのキャラクターだったが、新日本プロレスが実際に登場させようと企画。当時、イギリスで武者修行中だった新日本プロレスの佐山聡選手がタイガーマスクに選ばれ、1981年4月に登場したところ、そのアクロバティックなスタイルが人気を博し、大人から子どもまで大ブームを引き起こした。

そんなタイガーマスクが、新日本プロレスを退団後の1984年に作った「スーパータイガージム」は、用賀と二子玉川の間にある、瀬田の交差点のそばにあったアスレチックジム内に設立された。

タイガーマスクが用賀にジムを開いた理由は、当時彼が用賀に住んでいたからだという。

この場所は、その後「山河の湯」という温泉となり、現在はアクアスポーツ&スパというスポーツジムとなっている。

前田日明とタイガーマスクが偶然会った玉川高島屋の本屋

ここ数年、プロレスファンの間で「UWF」という昔の団体が大きな注目を集めている。

その理由は、かつて「UWF信者」と呼ばれる人々まで生み出すほどの人気があった、この団体が解散した真相についての告白本や証言集が出て、さまざまな事実が明らかになってきたことにある。

それらのエピソードの中でも、たまに用賀が登場するのだ。例えば高田延彦は『泣き虫』の中で「脚を引きずって用賀のマンションに帰った。歩けないから外に飯を食いに行くわけにもいかない。冷蔵庫を開ける。入っていたのは6Pチーズが3個だけ――」と、さりげなく当時用賀に住んでいたことを明かしている。

このようなUWFと用賀の話をするにあたっては、日本のプロレスの歴史の中でのUWFの位置づけについての説明が必要になる。重要な伏線となるので、少しお付き合いいただければと思う。

まず日本のプロレスの源流は、街頭テレビでおなじみの力道山である。

その弟子が、アントニオ猪木、ジャイアント馬場だった。力道山の死後、ジャイアント馬場は「全日本プロレス」を設立。アントニオ猪木は「新日本プロレス」を設立する。

有名な外国人レスラーを呼んで日本人が戦う、という王道を行く全日本に対して、有名な外国人レスラーが呼べなかったアントニオ猪木の新日本プロレスは「一寸先はハプニング」というモットーのもとに、街中での襲撃事件など、世間を騒がせるような演出をたびたび行っていた。

それでも何度かの経営難が訪れる中で、練習場の確保が困難になり、アントニオ猪木は自らが住んでいた自宅に練習場を建設する。それが上野毛の多摩川沿いの敷地だった。

そのため、多くの新日本プロレス関係者が二子玉川や用賀、等々力などの周辺の住宅地に住むようになった。このことがプロレス関係者が用賀周辺に多い理由の一つとなる。

そうした中、アントニオ猪木の個人ビジネスのためにプロレス団体の資金が投入されていた疑惑が持ち上がり、新日本プロレス内でアントニオ猪木が追放されそうになる。

それを察知した新日本プロレスの幹部が、アントニオ猪木が追放された後の受け皿となる団体として「UWF」を1984年に設立。猪木が来る前に、前田日明、高田延彦、藤原喜明など、何名かの選手が移籍をして、猪木を待っていた。

しかし、結局、アントニオ猪木追放計画は頓挫し、残留を果たす。その結果、移籍した彼らは取り残されてしまった。

当時の彼らはまだスター候補生であり、集客力のあるスターが不在だった。そんな彼らが待っていたのが、抜群の人気を誇るタイガーマスク(佐山聡)だった。

後に佐山聡は「ザ・タイガー」という名前で合流するのだが、その直前にあたる、佐山聡が新日本を退団し、前田日明がUWFに移る時期に、彼らは偶然街で会っていた。

その頃、前田日明は二子玉川に住んでいた。用賀に住んでいた佐山聡とは隣町となる。そんなある日、二子玉川の玉川高島屋の紀伊国屋書店で偶然二人は出会い、佐山聡は「シュートという団体をやるんだ、こないか?」と前田日明に声をかけていたのだ。

もともと前田日明がプロレスの世界に入ったのは、佐山聡に誘われたから、という関係性がある二人だけに、もしかしたらここでプロレスの歴史が変わっていたかもしれない出来事だった。

だが、すでに前田日明はUWFへの合流を決意していたため、この時は断ったという。

二人が偶然会った二子玉川の紀伊国屋書店はいまも残っている

UWFと用賀の練習場

さて、UWFに猪木が来ないことが分かった以上、彼ら自身で生き残っていかなくてはならない。

そこで彼らが他の団体と差別化するために打ち出したのが「練習場でやっている、リアルなプロレス」だった。

プロレスとは「受けの美学」であると言われている。チョップがくれば、それをいかに受けるか。四の字固めであれば、その痛みをジッと耐えるのではなく、体を使って表現する。

興行であり、お客さんに喜んでもらうために、避けるのではなくあえて受ける、その迫力あるやりとりでお客さんを沸かせるのが良いレスラーの条件となる。

受けるという選択をする彼らは、しっかりと体を鍛え、受け身を確実に身に着けてからリングに上がっていく。

だが、そうした華やかなマットの世界とは別に、練習場では互いに関節を極め、誰が最強かが争われていた。

そうしたことから当時のプロレスファンの間では「道場で本当に強いのは●●だ」という噂がまことしやかに囁かれていた。

UWFは、その噂を逆手に取る形で「道場での練習をリングで見せる」というスタイルを採用した。そして、当時、その頂点にいたのがプロレスの神様、カールゴッチの薫陶を受け、「関節技の鬼」と呼ばれた藤原喜明だった。

さらに、打つ(打撃)、投げる、極める、という3つを成立させるためのUWFルールを作成したのが、既存のプロレスを超えたものを作ろうと模索していた佐山聡だった。

やがて彼らは、現在の総合格闘技に近いプロレスを確立していく。

そんなプロレス史に残る転換を起こしたUWFだが、当時技を磨いた道場の場所が実は用賀にあったのだ。

正確な住所は不明だが、ネットにある動画などを見る限り、砧公園のそばにある世田谷区立運動場のあたりだと思われる。この場所は、UWFを支援していた運送会社が持っていた土地であり、その場所で前田日明や高田延彦は汗を流していたのだった。

【中編に続く】

世田谷とプロレスシリーズ

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世田谷歴史ミステリー第1話「世田谷城」の抜け穴には金額財宝が埋まっていた!?【後編】

世田谷城の抜け穴は実在したのか?

抜け穴と聞くとワクワクするのは、歴史ファンだからか、隠れ家を作っていた少年時代の血が騒ぐのか、どちらか分からないが、お城に抜け穴があったと聞くと、ちょっとワクワクしてしまう。

抜け穴の用途は、いざという時に逃げるものだろう。では、具体的にどのあたりにあったのか。それは城址公園から現在の豪徳寺を抜けて、宮の坂駅のそばにある「世田谷八幡神社」の辺りまで続いていたと言われている。

郷土資料 世田谷城の抜け穴

だが、残念ながら証拠はない。郷土資料によると、昔のお城の研究家は「この城には抜け穴があった」と明確に書いており、土地の古老も電車を敷くための工事の時に穴があるのが見えたと語っているという。そんな話がある一方で、いや、あれは戦時中の防空壕だ、という話も載っていた。つまり、噂は残っているが確証はないのだ。

では改めて調べようにも、現在は住宅が立ち並び、今さら地下を掘って確かめることは不可能になっているので、その真意は不明になっている。

もっといえば、その抜け穴には「金銀財宝が隠されている」という言い伝えがあるという。これこそが、先述した驚きの情報だった。

世田谷城の抜け穴に金銀財宝があった!?

抜け穴から逃げる=城を捨てて遠くに行く、ということであり、それならその途中に逃走資金として財宝を隠しておく、というのは納得できる話だ。

とはいえ、さきほども書いたが抜け穴の調査は行われていないため、財宝を吉良家が持って行ったのか、それともいまも誰かの家の下に眠っているかは分かっていない。

世田谷城で二百数十年も貯めこんだ金銀財宝はいったいどれほどの額だったのか。小田原攻めにも行ってないとなると、それほどお金を使う機会も無かったことが想像される。

なんだか徳川埋蔵金のような話だが、それが世田谷の話として残っているのである。

世田谷城の抜け穴には金銀財宝が埋まっていた――。

その真相よりもそんな話が残っていた、というロマンに心が震えてしまう。

ああ、いい話だ、なんていい話だ、と思いながら、ぼくは無意識のうちに家にあるはずのスコップの位置を思い出していた。

世田谷城址公園データ

■住所
東京都世田谷区豪徳寺2-14-1

■アクセス
世田谷線宮の坂駅下車徒歩5分

(参考文献:せたかい 第53号「戦国時代の世田谷城と世田谷新宿」永原慶二、「世田谷城の抜穴について」相原明彦)

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世田谷歴史ミステリー第1話「世田谷城」の抜け穴には金額財宝が埋まっていた!?【前編】

世田谷区にはかつてお城があったという。

それを知ったきっかけは、豪徳寺だった。ある日、豪徳寺の位置を確認しようと、地図を見ていたら、その隣に「城址公園」という場所があったのだ。

城址公園とは、お城があった跡地に作られた公園のこと。全国に城址公園はあるが、世田谷区にあるのは知らなかった。

高級住宅地といわれる世田谷区にお城があったとは。歴史好きな私は、早速、お城の痕跡を求めて現地に行ってみることにした。

世田谷線で城址公園へ

東急田園都市線の三軒茶屋駅で世田谷線に乗り換えて、宮の坂駅に降り立った。
駅を降りて、豪徳寺の先にある城址公園を目指す。

ついでだから手前の豪徳寺にも立ち寄ってみる。招き猫の置物が大量に置かれている。

それを撮影しようと、多くの外国人が訪れていた。海外には招き猫がないから珍しいのだろう。そんなことを思いながら、豪徳寺を後にした。

目指す「城址公園」は、豪徳寺と隣接する場所にあった。

広さは約1万坪と言われており、野球場3個分ぐらいの広さだ。公園としては大きいが、一般的なお城と比べるとだいぶ狭い。公園に入ると、7メートル程度の小高い山があり、その周りが石垣のような造りになっている。目の前の階段部分もかなりお城らしい雰囲気がある。

とはいえ、お城っぽいといえば、お城っぽいといえるが、一般的に想像するような、天守閣があるお城らしいものはどこにも無い。山の上に登って下を見ると、家族連れが歩いている。あそこがきっと空堀(水の入ってないお濠)だろう。そのほかに立派な井戸の跡もあった。だが、お城の痕跡はそれぐらいだ。

そもそも、ここは誰のお城なのだろう。区立図書館の郷土資料コーナーに行き、調べてみることにした。

そこでいくつか資料を読むうちに、まるで月刊「ムー」の記事のような驚きの情報にたどり着いてしまった。ウソだろ、思わず本を地面に落としてしまう。周りの視線を感じながら、大急ぎで本を拾い、席に座る。こんなものがあるとは・・・。

その事について書くためには、まずはこの城の持ち主について書き記したいと思う。

吉良家と世田谷城

世田谷城は、吉良氏という一族のお城だった。

吉良といえば、忠臣蔵の吉良上野介(きらこうずけのすけ)を思い浮かべる人もいるかもしれないが、源流は同じであり、奥州吉良家と呼ばれる流れが世田谷吉良家であり、赤穂事件の吉良上野介は、三河吉良家と呼ばれる家系となる。

吉良家の家柄は、のちに将軍となる足利氏の一門であり、「御所(足利将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」という言葉が残っている。いざという時には将軍になれるほど、名門の一族だったのだ。

この吉良氏が現在の世田谷に来たのが、14世紀後半(西暦1351年から1400年)だ。

14世紀後半と言われてもピンと来ないので、日本の年表を見てみると、鎌倉幕府が滅亡したのが1333年。その後、1338年には足利氏が室町幕府を作り、勢力を拡大する。

これが足利氏の一門であった吉良家にも恩恵をもたらす。1366年に世田谷郷が与えられたのだ。世田谷に来た吉良氏のために、のちに世田谷城になる場所が1394~1426年頃、居館として整備された。つまり、最初は城ではなく館だったのだ。

それから吉良氏は二百数十年の間、この地を治め、吉良の館は「吉良御所」「世田谷御所」と呼ばれていたという。

世田谷城はいつお城になったのか?

さて、世田谷の地にやってきた吉良家。彼らの館が明確に城になった時期は特定されていない。だが、城になったとしてもそれは多くの人が想像する天守閣があるような城ではなく、平地に土塁や堀りなどを作って城砦化した程度だったのではと言われている。

やがて八代続いた吉良家の世田谷城に危機が訪れる。秀吉の小田原攻めだ。

小田原攻めとは、豊臣家と北条家の戦いである。一見、吉良家とは関係のない話のように思えるが、この時期、吉良家は北条家と近い関係にあった。

当時の北条家は関東を治めた大名であった。世田谷にいた吉良家は生き残るために北条家と婚姻関係を結んで、その庇護下に入っていたのだ。

地域で一番大きな北条家の下に入って安心していたが、やがて関西にいた秀吉が日本統一の最後の大仕事として、北条家に攻撃を仕掛けることになる。それが「小田原攻め」だった。

この小田原攻めに対して、吉良家が一緒に戦ったなどの記録は残されていない。とはいえ、北条家の下に入っていた吉良家にとっても小田原攻めの影響は大きかった。

1590年に北条家が破れると、吉良家は上総国(現在の千葉県)へと逃れ、世田谷城は廃城となってしまったのだ。

ここで世田谷城の歴史は終わってしまう。その後に登場するのが、豪徳寺だ。

ここで1つ郷土史の中で議論になっていることがある。果たして世田谷城はいまの城址公園のエリアだけを指すのか、それとも豪徳寺も含んでいたのか、という問題だ。

現在有力なのは豪徳寺も含む、という説らしい。そうなると広い。一気に観光地などで見るお城らしい広さになる。

そして、もう一つ面白い話がある。実は世田谷城には抜け穴があったというのだ。

世田谷城址公園データ

■住所
東京都世田谷区豪徳寺2-14-1

■アクセス
世田谷線宮の坂駅下車徒歩5分

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世田谷歴史散歩 第1回 松陰神社のレア御朱印をもらいにいく

東急世田谷線に「松陰神社前」という駅がある。

この駅名の由来にもなっている、吉田松陰ゆかりの「松陰神社」では、月に一日だけ特別な御朱印をもらうことができるという。

一体どういうことだろう。そもそも世田谷と吉田松陰に一体何の関係があるのだろうか。

早速、調べてみることにした。

松陰神社と吉田松陰

吉田松陰といえば、幕末の教育者であり、思想家だった人物。特に長州藩(現在の山口県)で松下村塾の先生をしていた時には、当時の門下生から高杉晋作や伊藤博文などを輩出するなど、幕末の偉人の一人である。ゆかりの地といえばとうぜん松下村塾があった山口県の萩となる。

それでは、なぜ松陰神社が世田谷区にあるのか。

その理由を探ると、もともとあの場所には、長州藩主の別邸があったという歴史に行きつく。

その後、1859年に松陰は「安政の大獄」で処刑されてしまう。亡くなったのは29歳の時だった。その若さに改めて驚いてしまう。しかも、松下村塾で彼が教えた期間はわずか2年半だという。なんて密度の濃い人生だろう。

松陰が亡くなった4年後の、文久3(1863)年、薩英戦争があった年に高杉晋作などの門人によって、処刑されたものたちが眠る回向院にあった松陰の墓を、世田谷区の現在の松陰神社の敷地に改葬した。

その後、明治15(1882)年に松陰を祀る松陰神社が創建されたのだった。

ちなみに、実在の人物が亡くなって神様になる例は実は珍しくない。 乃木坂にある、乃木神社は明治の軍人、乃木希典(のぎまれすけ)を祀っており、鹿児島には西郷隆盛を祀る南洲神社(なんしゅうじんじゃ)もある。

毎月の月命日にもらえる特別な御朱印

さて、本題である特別な御朱印だが、こちらは吉田松陰の命日が10月27日だったことから、毎月の月命日である27日の御朱印だけ、松陰のシルエットが一緒に捺される。これが御朱印マニアの間では「レアな御朱印」として人気を集めているのだ。

ちなみに、ここ数年人気となっている御朱印。一体どういうものだろう、と思う方もいるかもしれないので、簡単に説明すると以下のようなものである。

  • 御朱印は参拝した証として神社やお寺でいただくもの。
  • 参拝後に社務所に御朱印帳を渡して、御朱印を受け取る。
  • 値段は500~1000円ほど。
  • 御朱印帳は訪ねたお寺や神社などで売っているものを購入する。また、最近は専門店があったり、ネット通販でもステキなデザインのものが増えている。
  • 御朱印は手書きの場合もあれば、判子のようになっていて捺してもらうこともある
  • 御朱印の人気スポットは、半日ぐらい並ぶ場合もある。

ということで、早速、令和元年の9月27日に松陰神社の御朱印をもらいに行ってみることにした。

平日でも人が多い月命日の松陰神社

東急田園都市線の三軒茶屋駅から世田谷線に乗り換えて、3駅で松陰神社前に到着する。この駅は駅前の小さな商店街に5年ほど前からおしゃれお店が増えており、世田谷区の散策スポットとしても人気を集めている。

駅から松陰神社までは、徒歩5分ほど。かなり大きな鳥居をくぐると、きれいに整えられた参道がある。神社の中には森のように木が生い茂っているところもあるが、ここは非常に明るくて、晴れやかな気持ちになってくる。

途中には松陰の像があり、掲示板には9月の「松陰先生の言葉」が貼られている。幕末好きにはたまらないスポットだ。

社務所に着き、500円を支払い御朱印を依頼すると、番号札を渡される。少し待つようだ。

境内には同じように待っているらしい年配の女性が20人ほどおり、その後も次々と人がやってくる。やはり月命日の御朱印は人気のようだ。

待っている間に境内にある復元された松下村塾を見学する。想像以上に狭い。だが、きっとこの距離の近さこそが松陰と門下生の距離を縮め、彼らに幕末の日本を動かす熱を与えたのかもしれない。

さらに、そこから社務所の奥にある松陰のお墓も見学して、戻ったころに番号を呼ばれた。

受け取った御朱印を見ると、そこは松陰のシルエットが。令和元年の文字に、時代の流れを感じる。

幕末は、一般的に黒船来航の1853年から戊辰戦争の1869年までの16年間のことを指す。16年ということは、平成を30年と考えると、ほぼ半分ぐらい期間に起きた出来事だったのだ。

そのあまりに圧縮された歴史に驚きながら、クールダウンするように松陰神社商店街を通って駅へと戻る。かき氷店に、発酵食品の専門店、おしゃれなカフェに人気のパン屋が立ち並ぶ。

おしゃれなお店と幕末の歴史が一気に楽しめる、松陰神社前はかなりおすすめのスポットだ。

ちなみに、10月最終の土日には毎年「幕末維新まつり」が開催され、奇兵隊や新選組の衣装を身にまとった人たちの行進などが行われる。

維新まつり期間中の御朱印は、御朱印帳に記入する形ではなく、期間限定の見開きサイズの大祭り御朱印符の頒布となる。

今年は、10月26、27日が開催日だ。ぜひこの機会に松陰神社に足を運んでみてはいかがだろうか。


松陰神社データ

■住所
東京都世田谷区若林4-35-1

■アクセス
東急世田谷線「松陰神社前駅」下車、徒歩約3分。

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