東急田園都市線の用賀駅は、二子玉川の隣にある、静かな住宅街という雰囲気の街である。
だが、この用賀の街がプロレスの歴史の中でたびたび重要な舞台として登場する。
例えば、プロレス団体が解散の危機に陥った時に、藤原組長で知られる藤原喜明は「用賀の原っぱでプロレスやればいいだろ!」と言い放った、というエピソードが残されている。
なぜ、ここで用賀が登場するのだろうか。
用賀とプロレス、一見無関係に見える、この2つをつなぐ話について紹介したいと思う。
タイガーマスクのジムは瀬田にあった
かつて日本のプロレス界に、タイガーマスクというレスラーが存在したことは、プロレスファン以外でも知っている人が多いだろう。
もともとは梶原一騎原作のマンガのキャラクターだったが、新日本プロレスが実際に登場させようと企画。当時、イギリスで武者修行中だった新日本プロレスの佐山聡選手がタイガーマスクに選ばれ、1981年4月に登場したところ、そのアクロバティックなスタイルが人気を博し、大人から子どもまで大ブームを引き起こした。
そんなタイガーマスクが、新日本プロレスを退団後の1984年に作った「スーパータイガージム」は、用賀と二子玉川の間にある、瀬田の交差点のそばにあったアスレチックジム内に設立された。
タイガーマスクが用賀にジムを開いた理由は、当時彼が用賀に住んでいたからだという。
この場所は、その後「山河の湯」という温泉となり、現在はアクアスポーツ&スパというスポーツジムとなっている。
前田日明とタイガーマスクが偶然会った玉川高島屋の本屋
ここ数年、プロレスファンの間で「UWF」という昔の団体が大きな注目を集めている。
その理由は、かつて「UWF信者」と呼ばれる人々まで生み出すほどの人気があった、この団体が解散した真相についての告白本や証言集が出て、さまざまな事実が明らかになってきたことにある。
それらのエピソードの中でも、たまに用賀が登場するのだ。例えば高田延彦は『泣き虫』の中で「脚を引きずって用賀のマンションに帰った。歩けないから外に飯を食いに行くわけにもいかない。冷蔵庫を開ける。入っていたのは6Pチーズが3個だけ――」と、さりげなく当時用賀に住んでいたことを明かしている。
このようなUWFと用賀の話をするにあたっては、日本のプロレスの歴史の中でのUWFの位置づけについての説明が必要になる。重要な伏線となるので、少しお付き合いいただければと思う。
まず日本のプロレスの源流は、街頭テレビでおなじみの力道山である。
その弟子が、アントニオ猪木、ジャイアント馬場だった。力道山の死後、ジャイアント馬場は「全日本プロレス」を設立。アントニオ猪木は「新日本プロレス」を設立する。
有名な外国人レスラーを呼んで日本人が戦う、という王道を行く全日本に対して、有名な外国人レスラーが呼べなかったアントニオ猪木の新日本プロレスは「一寸先はハプニング」というモットーのもとに、街中での襲撃事件など、世間を騒がせるような演出をたびたび行っていた。
それでも何度かの経営難が訪れる中で、練習場の確保が困難になり、アントニオ猪木は自らが住んでいた自宅に練習場を建設する。それが上野毛の多摩川沿いの敷地だった。
そのため、多くの新日本プロレス関係者が二子玉川や用賀、等々力などの周辺の住宅地に住むようになった。このことがプロレス関係者が用賀周辺に多い理由の一つとなる。
そうした中、アントニオ猪木の個人ビジネスのためにプロレス団体の資金が投入されていた疑惑が持ち上がり、新日本プロレス内でアントニオ猪木が追放されそうになる。
それを察知した新日本プロレスの幹部が、アントニオ猪木が追放された後の受け皿となる団体として「UWF」を1984年に設立。猪木が来る前に、前田日明、高田延彦、藤原喜明など、何名かの選手が移籍をして、猪木を待っていた。
しかし、結局、アントニオ猪木追放計画は頓挫し、残留を果たす。その結果、移籍した彼らは取り残されてしまった。
当時の彼らはまだスター候補生であり、集客力のあるスターが不在だった。そんな彼らが待っていたのが、抜群の人気を誇るタイガーマスク(佐山聡)だった。
後に佐山聡は「ザ・タイガー」という名前で合流するのだが、その直前にあたる、佐山聡が新日本を退団し、前田日明がUWFに移る時期に、彼らは偶然街で会っていた。
その頃、前田日明は二子玉川に住んでいた。用賀に住んでいた佐山聡とは隣町となる。そんなある日、二子玉川の玉川高島屋の紀伊国屋書店で偶然二人は出会い、佐山聡は「シュートという団体をやるんだ、こないか?」と前田日明に声をかけていたのだ。
もともと前田日明がプロレスの世界に入ったのは、佐山聡に誘われたから、という関係性がある二人だけに、もしかしたらここでプロレスの歴史が変わっていたかもしれない出来事だった。
だが、すでに前田日明はUWFへの合流を決意していたため、この時は断ったという。
UWFと用賀の練習場
さて、UWFに猪木が来ないことが分かった以上、彼ら自身で生き残っていかなくてはならない。
そこで彼らが他の団体と差別化するために打ち出したのが「練習場でやっている、リアルなプロレス」だった。
プロレスとは「受けの美学」であると言われている。チョップがくれば、それをいかに受けるか。四の字固めであれば、その痛みをジッと耐えるのではなく、体を使って表現する。
興行であり、お客さんに喜んでもらうために、避けるのではなくあえて受ける、その迫力あるやりとりでお客さんを沸かせるのが良いレスラーの条件となる。
受けるという選択をする彼らは、しっかりと体を鍛え、受け身を確実に身に着けてからリングに上がっていく。
だが、そうした華やかなマットの世界とは別に、練習場では互いに関節を極め、誰が最強かが争われていた。
そうしたことから当時のプロレスファンの間では「道場で本当に強いのは●●だ」という噂がまことしやかに囁かれていた。
UWFは、その噂を逆手に取る形で「道場での練習をリングで見せる」というスタイルを採用した。そして、当時、その頂点にいたのがプロレスの神様、カールゴッチの薫陶を受け、「関節技の鬼」と呼ばれた藤原喜明だった。
さらに、打つ(打撃)、投げる、極める、という3つを成立させるためのUWFルールを作成したのが、既存のプロレスを超えたものを作ろうと模索していた佐山聡だった。
やがて彼らは、現在の総合格闘技に近いプロレスを確立していく。
そんなプロレス史に残る転換を起こしたUWFだが、当時技を磨いた道場の場所が実は用賀にあったのだ。
正確な住所は不明だが、ネットにある動画などを見る限り、砧公園のそばにある世田谷区立運動場のあたりだと思われる。この場所は、UWFを支援していた運送会社が持っていた土地であり、その場所で前田日明や高田延彦は汗を流していたのだった。
【中編に続く】
世田谷とプロレスシリーズ
1978年生まれの編集者。世田谷区用賀在住。子どもは長男(7歳)、次男(4歳)の二人。歴史と散歩と釣りが好き。最近は子どもと多摩川で釣りをしたり、プロレスの歴史を調べることにハマっている。