に投稿

プロレスファンの聖地・焼き鳥「市屋苑」に行ってきた〜後編〜【世田谷とプロレスシリーズ2】

中編では鈴々舎馬るこ(れいれいしゃ まるこ)師匠のインタビューをたっぷりとお届けした。
最終話となる後編では安生洋二さん、鈴木健さんも登場し、落語とプロレスの共通点など、熱い話をお届けしよう。

安生洋二さんがあの人はバケモノと呼んだレスラーとは?

――いや~実際に安生さんが目の前にいると緊張しますね。馬るこ師匠どうですか?

馬るこ師匠、以下馬るこ)
僕も緊張しちゃいますね。

安生さん、以下安生)
俺も人見知りだから・・・。そしたら、MEGA角ハイボール飲みます? すごい大きいのに480円。お得なんですよ。

じゃあそれで、と頼むと、海賊のジョッキみたいなでかいビアグラスが出てきた。それを黙々と飲み、ようやく少し落ち着く。

――ここではどれぐらい働いているんですか?

安生)週に4日。いつかは独立したいと思っているんだけど、どれぐらい経ったら独立できるだろう(笑)、よく分からないね。

――なるほど。安生さんといえば、色々な事件(グレイシー道場破り事件、前田日明襲撃事件など)がありましたが、プロレス人生を振り返って一番思い出に残っていることはなんですか?

安生)う~ん、若手時代のジムで練習して、たまに先輩に小遣いをもらっていた、あの頃かな。

――え、結構色々なプロレス史に残る事件もありましたよね

安生)ああいうのは、団体を背負って動いていたし、言われてやっていたりと、自分の判断でも無かったから、辛いな、大変だな、という気持ちの方が大きかったかな。それよりも強くなることだけに没頭していた若手時代の方がいい思い出が残ってるね。

――現役時代には猪木さんをはじめ、高田延彦さんや前田日明さんなど色々な人と絡みがあったと思いますが、印象に残っている人はいますか?

安生)高田さんと、武藤敬司さん、この二人はもうバケモン。あとはアントニオ猪木さんもとんでもないバケモノ。普通のプロレスラーはスター性とか、強さとかを表す五角形でいうと、出ているところと引っ込んでいるところがあるんだけど、この人たちは真ん丸。こういうバケモノみたいな人たちを見ると、自分が試合でどう輝くかよりも、最後に登場するメインイベントの人たちのために、どういう試合をすべきか、ということを考えるようになりましたね。

馬るこ)ああ、それは落語も一緒です。トリのすごい人がいて、そこに向かって、みんなで流れを作っていく。プロレスも落語も個人のようで、団体なんですよね。興行なので。

安生)あ~そういうもんですか。落語も同じなんですね。僕はたまたま強かったんですけど、それでもあの3人を見ると、自分が凡人だと痛感しましたね。

馬るこ)そうですね。みんな自分はすごいと勘違いして、この世界に入るけど、バケモンみたいな人を見て、自らの凡人ぶりに気付くんですよね。

――なるほど~。ちなみに、ここのお店にはプロレスラーも来ますか?

安生)たまに来ますね。新日の鈴木みのるも年に2回ぐらい来て「先輩おごってくださいよ」なんて、一人じゃなくて、後輩も連れて、俺よりも稼いでるくせに(笑)。あとはライオネル飛鳥さんとか年に1回ぐらい来てくれますね。普通に「お~ライオネル飛鳥だ」ってなって何も言えないですね。

――UWFのテーマの許可は誰にとればいいですかね

安生)カール・ゴッチ(プロレスの神様)じゃないですかね?(笑)オーナーの鈴木に聞いてみてください。

ここでオーダーストップが終わった鈴木健さんが合流。入れ替わるように安生さんが席を後にした。

鈴木健さんは、もともと高田延彦さんの後援会長だったが、UWFが解散したときに、高田さんに独立を促し、自らも経営に加わって、UWFインターナショナルのスタッフとして活躍した人物である。

――お店の客層はプロレスファンが多いですか。

鈴木健さん、以下鈴木)いやいや、地元の人の方が多いかな。プロレスファンはすぐ分かりますね。だいたい着ているTシャツで分かります。埼玉から毎週来てくれる人もいるし、けっこう固定のファンが多いですね。

――鈴木さんはもともと用賀の文房具店を営まれていたんですよね。

鈴木)そう、用賀で生まれ育って65年。もともとは地域の文房具店だったから、地元の小学校とかにも納めていて年商も何億とかあったよ。もう潰れちゃったけど。

――この市屋苑の場所は、もともとUWFインターナショナルの事務所だったんですか?

鈴木)そう。うちが持っていた場所で、ここにグッズを置いたりしていた。

――用賀はプロレス関係者が多いですよね

鈴木)用賀といえばUWFでレフェリーをやっていた北沢幹之さん、現役時代は魁勝司(かいしょうじ)さんも用賀で、その関係でいまの駅ビルが建つ前に、あの場所にプロレスの特設リングを作って試合をやっていたよ。

――全日本プロレスの川田利明さんのラーメン店「麺ジャラスK」も、砧公園の方ですよね。

鈴木)この辺は多いんですよ。世田谷全体に散らばっている感じだね。UWFインターナショナルの金原も用賀でかねはら整骨院をやっているし。

――いま振り返るとプロレスに関わった時間はどうでしたか?

鈴木)楽しかったね~。いま思い出しても楽しい思い出。

馬るこ)すいません。実はわたくしは、出囃子で「UWFのテーマ」を使っているんですけど、使用許可をとっておらず、できれば今日許可を取れればと思うのですが。

鈴木)嬉しいね。落語家でそうやって使ってくれる人がいるなんて。もちろん大丈夫ですよ。

馬るこ)ありがとうございます!

落語家と元プロレスラーとの夜を終えて

こうして、落語家と元プロレスラーの邂逅という不思議な夜が終わった。海賊のジョッキでハイボールを飲んで以来、時間が早く過ぎてしまい、いつの間にか時計は12時を回っていた。

安生さんと馬るこ師匠の二人が語った、凡人とバケモノの話は非常に興味深く、そのうえで落語で言えばトリ、プロレスならメインという「バケモノ」レベルの人たちのためにチームプレーで興行を成功させていく、という意外な共通点も知ることができた。

それにしても、安生さんは元プロレスラーと言われなければ分からないほど穏やかな方で、驚いてしまった。一方、鈴木健さんはとても65歳とは思えないほど力強いエネルギーを発していて、ああ、こういう人が一緒にやろうよ!と言ったから高田延彦さんは、団体設立を決めたんだな、とやけに納得してしまった。

さて肝心の安生さんの焼いた焼き鳥だが、これがぜんぶ美味しかった!焼き鳥以外も全てレベルが高くて、ボリュームもあり、酒飲みの心を分かっているメニューが揃っていた。

そして、安生さんのイチオシのMEGA角ハイボールはお得なので、おすすめだ。

我々との話が終わった安生さんはお客さんと記念撮影をし、トイレの壁にはあの「1億円トーナメント」の写真が飾られていた。

ここはやはりプロレスファンの聖地であり、もしもプロレスファンでなくても、十分楽しめるステキなお店だと思う。

用賀に来た際はぜひ立ち寄ってみてはいかがだろうか。

焼き鳥以外にもお酒に合うメニューが揃っている

市屋苑

用賀とプロレス後編

■住所
東京都世田谷区用賀4-14-2 2F

■電話番号
 03-3707-3223

■アクセス
東急田園都市線用賀駅から徒歩約5分

世田谷とプロレスシリーズ

※本記事の内容は公開時点での情報です。公開後の時間経過により名称や情報等が異なる可能性がございます。
あらかじめご了承ください。

に投稿

プロレスファンの聖地・焼き鳥「市屋苑」に行ってきた〜中編〜【世田谷とプロレスシリーズ2】

前編では市屋苑(いちおくえん)と鈴々舎馬るこ(れいれいしゃまるこ)師匠の関係を紹介した。
今回は、馬るこ師匠のプロレス少年だった頃の話、そして落語家になったきっかけについて話を伺った。

プロレスとの出合い

――最初にプロレスを見たのはいつですか?

僕は1980年に山口県で生まれたんですけど、小さい頃は山口にはプロレス中継がなくて、中学生の時にようやくプロレス中継が始まったんですね。当時、新日本プロレスには武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の闘魂三銃士の全盛期。特に蝶野選手がかっこよかったですね!

――ご自身の出囃子が「UWFのテーマ」ですけどUWFについてはどうですか?

UWFはテレビ中継がなく、当時はビデオを買うしかなかったのですが、値段が高くて(1万円以上)ほとんど見てないので、雑誌で動向を知るぐらいしかなかったですね。ただ、UWFが三銃士のいる新日と交流戦をやる時があり、そこで初めて「UWFのテーマ」を聞いて心を奪われました。

――落語の出囃子でプロレスのテーマというのは異例ですよね

そうですね。寄席で出囃子を演奏する女性たちがいるんですけど、落語界では、その方たちが新人の出囃子を決める、というのが多かったりするんです。けど、僕はこの曲が好きだったので、自分で楽譜作ってお願いに行きました

――やってくれました?

う~ん、嫌がられましたね(笑)。ただ、基本的に落語協会がJASRACにお金を払っているので、何の曲を使ってもいいことになっているんです。ただ実はUWFのテーマを使う筋を通してないんですよ。だから、今日は事後承諾だけど、使用許可をもらおうかなと。

――なるほど。いまもプロレス観戦はするんですか?

いまは新日のリングにも出ている飯伏幸太とか、ジュニア級の試合を見ることが多いですね。

美味しいタレとマッチした焼き鳥の焼き具合も含めて絶品だった。

お笑いから落語の世界へ

――続いて落語の話を聞かせてください。最初に落語の世界に入ったきっかけは?

僕が落語の世界に入ったのは、2003年なのですが、その前はお笑い芸人として活動していました。もともと、ダウンタウンが大好きで、大学に入るために上京したのですが、在学中に、雑誌の相方募集などを見ながらコンビを組んでお笑いのライブに出たりしていました。

――お笑い芸人から落語というのはどういう流れなんですか?

最初はコンビを組んでやっていたのですが、どうもコンビというのが合わなくて、ピンでやるようになったんですね。その後、事務所にも所属できて、テレビ番組のお手伝いなんかをやったりして、上手くいっていたので、大学も中退してしまったんですけど、事務所がいきなり解散してしまうんですね。

――え、いきなりですか

いきなりです。それでふと自分には何も無いなと。一方で、他の人は「おれ10人人集めます」といえば、人を集めるような人脈があったりする。それを見ていて、ふと落語家の修行がいいなと思ったんです。もともとピン芸の勉強のために、一人でやる話芸である落語は見ていたのですが、その中でも「落語の修行」というものに憧れて、落語家を目指したんです。

――それも変わってますね

落語家の弟子になるならだれがいいだろう、と色々な人を見て、寄席で一番爆笑をとっていたのが、今の師匠である鈴々舎馬風(ばふう)師匠でした。

――弟子の修業は大変でしたか?

もう箸の上げ下げから直されますから、本当に厳しかったですね。僕の場合は、おかみさんに厳しく言われた、という思いがあります。それであまりに辛くてある日、脱走をするんですね。

――どこに行ったんですか?

葛西臨海公園です。海が見たくて、レンタカー借りて。3日ぐらいで帰りました。

――師匠に見つかったんですか?

僕は当時師匠の家のネコの世話もしていたので、そのネコが死んだらまずいと思ってこっそり帰ったら見つかりました。そこでおかみさんが「厳しくしすぎた、ごめんね。あんたにNHK演芸新人賞を取って欲しくて、厳しくしたんだ」と初めて本心を明かしてくれたんです

――そのあと、2013年にNHK新人演芸大賞落語部門大賞を取ってますよね。

あの時は演目を大会用に磨き上げて臨みました。受賞した時は、やっぱりおかみさんが本当に喜んでくれましたね。

――その後、2016年からフジロックで毎年落語をやってますよね

あれはフジロック側が落語をやりたい、という話が落語協会にあって、誰もやりたがらなかったけど「馬るこならやるだろう」って話が回ってきたんです。

――私も現場で見ましたけど、あれは落語を聞きに来た人というより、屋根があるから雨宿りでいるみたいなところもあるから大変じゃないですか?

唯一の屋根があるところですからね(笑)。落語には、求心力と遠心力があって、噺の世界にぐっと引き込むのが求心力なんですけど、ああいう場で必要なのは場にいる人全部を巻き込む遠心力なんですよね。

――ああいうフジロックに出るところも含めて、馬るこさんはやはり異色ですよね。プロレスでいうと、師匠たちが普通のプロレスなら一人だけ「ルチャリブレ」(メキシコのエンターテイメント性が高いプロレス)みたいな(笑)

好き好んでというよりは、それしかできない、というか、来た仕事断らないですから、気付いたら色々な仕事をやってるんです。

――落語ブームと言われてますが、中の人間としてはどう見てますか?

僕が知っている最初のブームは2005年のドラマ「タイガー&ドラゴン」でした。あの頃は、落語と名前が付けばなんでも良かった。でも、いまはあの時とは違いますね。落語の中身、芸人の質にこだわって、お客さんも分かって見に来ているような感じです。

――落語をやる面白さはどういうところにあるんですか?

例えば、能の世界だと、幽霊の動きが「速い」という表現をするために、舞台上で人間の速さを1/5にしたんですね。人間を遅くすることで、幽霊が速く動く、ということを伝えた。そういう時間を操る技法が能にはある。一方で落語は、右を向いて「おい、おまえさん」とやって、左を向いて「なんだい」とやれば、会話がつながる。時間ではなく、空間を省略することができる。その落語の観念の世界を使いながらどう作品に落とし込むのか、そういうことを考えながら落語を作ってますね。

そして、ここで鈴木健さんが登場。短い金髪に鍛え抜かれた体で颯爽と登場した鈴木さんは、馬るこさんが持参した本にサインをすると、すぐに記念撮影。その勢いのまま、焼き場に入り、安生さんが席にやってきた。

65歳とは思えないほどエネルギッシュな鈴木健さん

【安生洋二さん、鈴木健さんが登場!後編に続く】

市屋苑

■住所
東京都世田谷区用賀4-14-2 2F

■電話番号
 03-3707-3223

■アクセス
東急田園都市線用賀駅から徒歩約5分

世田谷とプロレスシリーズ

※本記事の内容は公開時点での情報です。公開後の時間経過により名称や情報等が異なる可能性がございます。
あらかじめご了承ください。

に投稿

プロレスファンの聖地・焼き鳥「市屋苑」に行ってきた〜前編〜【世田谷とプロレスシリーズ2】

東急田園都市線の用賀駅にプロレスファンが集う焼き鳥店がある。

その名は「市屋苑(いちおくえん)」。オーナーは、元UWFインターナショナルというプロレス団体の経営陣の一人、鈴木健(すずき けん)さん。

そしてこの店で現在週に4日間、焼き鳥を焼いているのが、同団体所属レスラーだった安生洋二(あんじょう ようじ)さんだ。

なぜ用賀にこんなお店があるかの詳細は、以前書いた「用賀とプロレスの意外な関係」を読んでもらえればと思うが、かいつまんで言うと、かつて用賀にプロレス団体の事務所があったのだ。その団体は、高田延彦さんを中心にしたUWFインターナショナルという団体であり、彼らを有名にした出来事が「1億円トーナメント」の開催だった。M-1グランプリですら1000万円の賞金なのに、大盤振る舞いの1億円を賞金にして、各団体に参加を呼び掛けたのだ。

結局、どの団体も参加せず、大会は不成立に終わり、1億円の借金だけが残ってしまった。それを返済するために始めたのが、この「市屋苑(いちおくえん)」というお店だった。

プロレスファンにとっては「あの1億円トーナメントか!」となるお店であり、地元の人には美味しい焼き鳥店として親しまれている、こちらのお店を訪問することにした。

プロレス好きの落語家と訪れた焼き鳥の名店

今回の企画は、当初「有名人と行く世田谷のお店」という内容だった。
例えば、落語家がよく行くお蕎麦屋さんを教えてもらい、江戸情緒を味わう、というイメージだ。

だが、お願いした落語家がプロレス好きだったことから、「用賀の市屋苑に行きましょう」という話になったのだ。

その結果、落語の話と、プロレスの話と、市屋苑が混ざりあうバトルロワイヤルのような展開になってしまった。

時間の経過としては来店後2時間ほどで安生さんがテーブルに登場、安生さんが帰り、鈴木健さんが登場、という流れになっている。

安生さんと一緒に海賊のような大きなジョッキでハイボールを飲んで以降はややあやしいが、できるだけあの夜のやりとりを落語家へのインタビュー編と、プロレス編に分けてお伝えしたいと思う。

出囃子がUWFの落語家・鈴々舎馬るこ(れいれいしゃまるこ)

さて、今回登場してもらった落語家は、出囃子が「UWFのテーマ」というかなり偏ったプロレスファンである鈴々舎馬るこ師匠である。

2017年3月に真打になった鈴々舎馬るこ師匠は、「イタコ捜査官メロディー」など変わった創作落語もやりつつ、古典落語の改作を中心に初めて落語を聞いた人から通までをうならせる、爆笑タイプの落語家。

私が馬るこ師匠を「すごい!」と思ったのは、まだ真打になる前の「二つ目」と呼ばれる修行時代、池袋演芸場の出番の時に急に婚姻届けを出して、「受け取った人は僕と結婚してください!」と叫んで会場に投げて、年輩の男性が拾って二人で見つめあう、という場面を見たときだった。

そんな破天荒な一面がありつつ、落語家にとってM-1グランプリに匹敵するといわれる「NHK新人演芸大賞」も受賞している実力派である。

現在は笑点の若手大喜利に出演するなど、有望株として知られ、今後のさらなる活躍が期待されている。

さて、19時半、用賀で待ち合わせをした我々でろかるスタッフと馬るこ師匠がお店を訪れる。

店内にあるプロレスのポスターをじっくり見た馬るこ師匠。

ようやく席につくと、まずはプロレスとの出合いについて聞いてみることにした。

【お笑い芸人から落語家への転身~馬るこ師匠のインタビュー編に続く】

市屋苑

市屋苑(いちおくえん)外観

■住所
東京都世田谷区用賀4-14-2 2F

■電話番号
 03-3707-3223

■アクセス
東急田園都市線用賀駅から徒歩約5分

世田谷とプロレスシリーズ

※本記事の内容は公開時点での情報です。公開後の時間経過により名称や情報等が異なる可能性がございます。
あらかじめご了承ください。

に投稿

用賀とプロレスの意外な関係 〜 後編〜【世田谷とプロレスシリーズ1】

市屋苑(いちおくえん)外観

前編中編と、用賀とプロレスの関係を解いてきた本連載。
最後はUWFインターナショナル設立からの歩み、そしてプロレス史に残る数々の出来事を紹介しよう。

UWFインターナショナルのその後

プロレスの格闘技路線を推し進めた第二次UWFだったが、結局、前田日明の「リングス」、藤原喜明の「プロフェッショナルレスリング藤原組」、そして高田延彦の「UWFインターナショナル」へと分かれていく。

「UWFインターナショナル」は、かつてのアントニオ猪木のように高田延彦というスターを中心に据えて興行を行っていった。だが、スター選手の頭数は足りない。それを乗り越える方法が、現在の「炎上商法」に近い過激な演出だった。

その中の有名な事件の一つが「1億円トーナメント」だった。

ある人には事前に伝え、ある人には全く言わない、入念な仕込みとガチを織り交ぜながら演出を行っていくプロレスの世界にあって、「1億円トーナメント」は全くのガチ、寝耳に水だった。

「若手社員の思い付き」から、ある日突然、机の上に1億円を並べ、各団体の有名選手への挑戦状を手にした鈴木健氏が、団体を超えたトーナメント戦の開催を宣言したのだ。

このお金はすべて借金であり、付き合いのある信用金庫などからかき集めたものだったという。専門誌の表紙を飾り、大きな話題を集めた「1億円トーナメント」は根回しをしてないので、失敗に終わったが、「さすがUWFインターナショナル!またやってくれた」と言われたプロレス界の大事件だった。

だが、こうした演出に激怒していた人物がいる。当時、新日本プロレスでマッチメイクを担当し、「現場監督」と呼ばれていた長州力だ。

レスラーとしても絶頂期にありながら、客席をいかに沸かすかを考えていた長州にとって、当時のUWFインターナショナルの行動は「不確定要素」であり、雑音のようなものだったのだろう。

そんな長州力と、UWFの刺客、安生洋二が交流試合で対戦したのが、1995年の東京ドームだった。

日頃の遺恨から怒っているように見えた長州だが、試合後のインタビュアーの「キレましたか?」の質問に対して「キレちゃいないよ」とコメント。

後にこれがお笑いタレント長州小力によってモノマネされ、有名な言葉となる。

そして、UWFが残したもう一つの出来事が「グレイシー道場破り事件」である。

当時、格闘技界に激震が走る出来事があった。ある大会でいきなりグレイシー柔術という謎の武術団体のホイス・グレイシーという選手が優勝したのだ。

その情報はUWFインターナショナルまで届き、「プロレスこそ最強」をうたう彼らは、すぐさま反応。またもや刺客である安生洋二をロサンゼルスのグレイシー道場に送り込む。

ロサンゼルスに着いてからの流れについては諸説がある。

前日の忘年会でかなり酔っていた、飛行機でお酒を飲みすぎてしまったが着いてすぐに道場にいった、交渉係のつもりが、事前にきちんと話し合いが行われなかったのでいきなり試合になった、など色々な理由はあるが、結果として安生洋二は敗れ、血まみれになり、それが専門誌の表紙を飾る事件となってしまう。

当時の安生洋二は、道場でもかなり強い選手として知られていた。そのため、この敗戦は偶然の出来事なのか、本当にグレイシーは強いのか、という議論をよんだ。

その決着をつけるために、3年後、高田延彦とグレイシーが第1回目となる「PRIDE」で戦い、高田延彦が破れ、プロレス最強伝説に疑問符が付いてしまう。

その後にUWFインターナショナルの若手レスラーだった、桜庭和志が「グレイシーハンター」として次々にグレイシー一族を破る、という名勝負が生まれ、プロレスファンの留飲を下げたのだった。

そうした総合格闘技が生まれる前夜に起きた、プロレス界の大きな出来事である、1億円トーナメントや長州力の「キレちゃいないよ」発言、グレイシー一族対プロレスの戦いはすべて、UWFインターナショナルが起こした出来事であり、UWFインターナショナルが1996年に解散した後も、しっかりとプロレス史に刻まれているのだ。

そんなかつての「UWFインターナショナル」の事務所は、現在、焼き鳥店となっている用賀の「市屋苑(いちおくえん)」の場所だった。

世田谷とプロレス_市屋苑

勘が良い方は気付いているかもしれないが、この「市屋苑」という変わった店名の由来は、あの一億円トーナメントから来ているのだ。

この店は、高田延彦に新団体設立を決意させた男、鈴木健氏がオーナーを務める店であり、UWFインターナショナルの刺客だった安生洋二は、現在週に4日焼き鳥を焼いている。

さらに同じくUWFインターナショナルに所属していた金原弘光も「かねはら整骨院」を用賀に開設するなど、いまなお用賀にはプロレス、特にUWFインターナショナルの足跡がそこかしこに残されているのだ。

世田谷とプロレス_かねはら整骨院

現在は静かな住宅街である用賀の街だが、かつてはプロレスラーたちが行き来し、書店で偶然出会って立ち話をしたり、みんなが知っているお店で団体の未来について語り合っていたのだ。

もはやプロレスの聖地と言っても過言ではない、用賀の街で聖地巡りをしてみてはいかがだろうか。

用賀・二子玉川プロレスマップ

年表で見る用賀とプロレス

 

1984年2月

タイガーマスクを引退した佐山聡が、世田谷区瀬田にタイガージムを設立

1984年3月

第1次UWFが設立(用賀の道場で練習を重ねる)

1985年12月

UWFと新日本プロレスが業務提携

1988年2月

前田日明が長州力の顔面を蹴った事件で解雇される

1988年5月

第2次UWFが設立

1990年12月

第2次UWF解散

1991年1月

前田宅での打ち合わせで意見が分かれ、前田日明が解散を宣言

1991年1月

解散後について安生洋二、宮戸優光の両レスラーが高田延彦に連絡し、二子玉川のつばめグリルで話し合い新団体設立を説得する

1991年1月

用賀の文房具店の鈴木健氏が高田延彦に独立をうながす

1991年5月

UWFインターナショナルが用賀で設立される

世田谷とプロレスシリーズ

※本記事の内容は公開時点での情報です。公開後の時間経過により名称や情報等が異なる可能性がございます。
あらかじめご了承ください。

に投稿

用賀とプロレスの意外な関係 〜中編~【世田谷とプロレスシリーズ1】

前編では前田日明とタイガーマスクの出会いから、UWFと用賀の練習場までを紹介した。
中編ではUWF解散から新たな団体設立までを紹介しよう。

UWF解散と二子玉川のつばめグリル

そんなUWFのコンセプトは、革新的ではあったが、関節の極めあいを中心とした戦いはやはり地味だった。またテレビ放映がないことも大きく、次第に団体運営は行き詰ってしまう。

そして、UWFは新日本に業務提携という形で合流する。しかし、蹴りなどを多用していた彼らを新日本のレスラーは警戒。2年間の提携期間の後に転機となる事件が起こる。

前田日明が試合中に長州力の顔面に蹴りを入れ、長州力が重症を負ってしまう。これに対して新日本プロレスは前田日明を解雇処分としたのだった。

これを機に、業務提携中だったUWFの面々は、再び独立を果たす。

これが第二次UWFの始まりだった。

かつては「猪木が来ると思ったら来なかったから、残ったメンバーで手探りで試合をしていた」彼らだったが、第二次UWFは、自らの意思をもって興行をうっていった。

その後、UWFは熱狂的な人気を得ることとなる。テレビ中継はないものの、試合のビデオを販売し、全国の会場は超満員となった。客席には、糸井重里などトレンドに敏感な人が集まり、「UWF信者」と呼ばれる人たちが集まり、中心人物である前田日明は、当時流行の最先端だったパルコの宣伝に登場するなど、時代を象徴する人物となっていった。

それだけの人気を集めた彼らだが、それが悪い方向に向かってしまう。レスラー側が興行収益をスタッフが使い込んでいると訴え、団体が活動を停止してしまったのだ。

そして、中心人物の前田日明は、自分たちで新しい団体を作ろうと選手を自らの部屋に集める。

「みんなで一致団結してがんばろう」という決起集会のつもりだった前田日明に対して、自分たちの「職場」が無くなった選手たちは動揺を隠せない。

さらに当時は「メガネスーパー」の社長がプロレスにハマり、新団体を設立。そこが選手たちに大金を用意して勧誘しているという噂もあった。

上の人間と下の人間が見えている景色の違いもあり、意見はまとまらず、決起集会のはずが前田日明の口から解散が告げられてしまう。

その後、UWFに所属していた各選手が今後に向けて動いていく中で、若手レスラーの安生洋二と宮戸優光が話し合いを行う。

一方、当時用賀に住んでいた高田延彦は、途方に暮れ、自らのファンクラブの会長であり、用賀で文房具店を営んでいた鈴木健氏に相談すると「良い機会だから独立して自分の団体を作るべきだよ」と言われる。

そして、安生洋二、安生洋二の両選手が「話したいことがある」と高田延彦に声をかけ、3人が集まったのが、二子玉川玉島屋の「つばめグリル」だった。そして、この話し合いの結果、ファンクラブ会長の鈴木健氏を経営陣に加えて設立されたのが「UWFインターナショナル」という新たな団体だったのだ。

UWFが解散し、これからどうするのか社内で何度も話し合う中で藤原喜明は「用賀の原っぱで試合をすればいいよ」とみんなに語ったという。実際に現在の用賀の駅ビルである、ビジネススクエアが建つ前には、あの場所にプロレスのリングを設置し、特別試合も行われていたという。

「UWFインターナショナル」の事務所は、鈴木健氏が管理していた用賀駅のそばの建物の2階だった。事務所とはいえ、「UWFインターナショナル」というプロレス団体が用賀に存在していたのだ。

【後編に続く】

世田谷とプロレスシリーズ

に投稿

用賀とプロレスの意外な関係 〜前編 〜【世田谷とプロレスシリーズ1】

東急田園都市線の用賀駅は、二子玉川の隣にある、静かな住宅街という雰囲気の街である。
だが、この用賀の街がプロレスの歴史の中でたびたび重要な舞台として登場する。

例えば、プロレス団体が解散の危機に陥った時に、藤原組長で知られる藤原喜明は「用賀の原っぱでプロレスやればいいだろ!」と言い放った、というエピソードが残されている。

なぜ、ここで用賀が登場するのだろうか。

用賀とプロレス、一見無関係に見える、この2つをつなぐ話について紹介したいと思う。

タイガーマスクのジムは瀬田にあった

かつて日本のプロレス界に、タイガーマスクというレスラーが存在したことは、プロレスファン以外でも知っている人が多いだろう。

もともとは梶原一騎原作のマンガのキャラクターだったが、新日本プロレスが実際に登場させようと企画。当時、イギリスで武者修行中だった新日本プロレスの佐山聡選手がタイガーマスクに選ばれ、1981年4月に登場したところ、そのアクロバティックなスタイルが人気を博し、大人から子どもまで大ブームを引き起こした。

そんなタイガーマスクが、新日本プロレスを退団後の1984年に作った「スーパータイガージム」は、用賀と二子玉川の間にある、瀬田の交差点のそばにあったアスレチックジム内に設立された。

タイガーマスクが用賀にジムを開いた理由は、当時彼が用賀に住んでいたからだという。

この場所は、その後「山河の湯」という温泉となり、現在はアクアスポーツ&スパというスポーツジムとなっている。

前田日明とタイガーマスクが偶然会った玉川高島屋の本屋

ここ数年、プロレスファンの間で「UWF」という昔の団体が大きな注目を集めている。

その理由は、かつて「UWF信者」と呼ばれる人々まで生み出すほどの人気があった、この団体が解散した真相についての告白本や証言集が出て、さまざまな事実が明らかになってきたことにある。

それらのエピソードの中でも、たまに用賀が登場するのだ。例えば高田延彦は『泣き虫』の中で「脚を引きずって用賀のマンションに帰った。歩けないから外に飯を食いに行くわけにもいかない。冷蔵庫を開ける。入っていたのは6Pチーズが3個だけ――」と、さりげなく当時用賀に住んでいたことを明かしている。

このようなUWFと用賀の話をするにあたっては、日本のプロレスの歴史の中でのUWFの位置づけについての説明が必要になる。重要な伏線となるので、少しお付き合いいただければと思う。

まず日本のプロレスの源流は、街頭テレビでおなじみの力道山である。

その弟子が、アントニオ猪木、ジャイアント馬場だった。力道山の死後、ジャイアント馬場は「全日本プロレス」を設立。アントニオ猪木は「新日本プロレス」を設立する。

有名な外国人レスラーを呼んで日本人が戦う、という王道を行く全日本に対して、有名な外国人レスラーが呼べなかったアントニオ猪木の新日本プロレスは「一寸先はハプニング」というモットーのもとに、街中での襲撃事件など、世間を騒がせるような演出をたびたび行っていた。

それでも何度かの経営難が訪れる中で、練習場の確保が困難になり、アントニオ猪木は自らが住んでいた自宅に練習場を建設する。それが上野毛の多摩川沿いの敷地だった。

そのため、多くの新日本プロレス関係者が二子玉川や用賀、等々力などの周辺の住宅地に住むようになった。このことがプロレス関係者が用賀周辺に多い理由の一つとなる。

そうした中、アントニオ猪木の個人ビジネスのためにプロレス団体の資金が投入されていた疑惑が持ち上がり、新日本プロレス内でアントニオ猪木が追放されそうになる。

それを察知した新日本プロレスの幹部が、アントニオ猪木が追放された後の受け皿となる団体として「UWF」を1984年に設立。猪木が来る前に、前田日明、高田延彦、藤原喜明など、何名かの選手が移籍をして、猪木を待っていた。

しかし、結局、アントニオ猪木追放計画は頓挫し、残留を果たす。その結果、移籍した彼らは取り残されてしまった。

当時の彼らはまだスター候補生であり、集客力のあるスターが不在だった。そんな彼らが待っていたのが、抜群の人気を誇るタイガーマスク(佐山聡)だった。

後に佐山聡は「ザ・タイガー」という名前で合流するのだが、その直前にあたる、佐山聡が新日本を退団し、前田日明がUWFに移る時期に、彼らは偶然街で会っていた。

その頃、前田日明は二子玉川に住んでいた。用賀に住んでいた佐山聡とは隣町となる。そんなある日、二子玉川の玉川高島屋の紀伊国屋書店で偶然二人は出会い、佐山聡は「シュートという団体をやるんだ、こないか?」と前田日明に声をかけていたのだ。

もともと前田日明がプロレスの世界に入ったのは、佐山聡に誘われたから、という関係性がある二人だけに、もしかしたらここでプロレスの歴史が変わっていたかもしれない出来事だった。

だが、すでに前田日明はUWFへの合流を決意していたため、この時は断ったという。

二人が偶然会った二子玉川の紀伊国屋書店はいまも残っている

UWFと用賀の練習場

さて、UWFに猪木が来ないことが分かった以上、彼ら自身で生き残っていかなくてはならない。

そこで彼らが他の団体と差別化するために打ち出したのが「練習場でやっている、リアルなプロレス」だった。

プロレスとは「受けの美学」であると言われている。チョップがくれば、それをいかに受けるか。四の字固めであれば、その痛みをジッと耐えるのではなく、体を使って表現する。

興行であり、お客さんに喜んでもらうために、避けるのではなくあえて受ける、その迫力あるやりとりでお客さんを沸かせるのが良いレスラーの条件となる。

受けるという選択をする彼らは、しっかりと体を鍛え、受け身を確実に身に着けてからリングに上がっていく。

だが、そうした華やかなマットの世界とは別に、練習場では互いに関節を極め、誰が最強かが争われていた。

そうしたことから当時のプロレスファンの間では「道場で本当に強いのは●●だ」という噂がまことしやかに囁かれていた。

UWFは、その噂を逆手に取る形で「道場での練習をリングで見せる」というスタイルを採用した。そして、当時、その頂点にいたのがプロレスの神様、カールゴッチの薫陶を受け、「関節技の鬼」と呼ばれた藤原喜明だった。

さらに、打つ(打撃)、投げる、極める、という3つを成立させるためのUWFルールを作成したのが、既存のプロレスを超えたものを作ろうと模索していた佐山聡だった。

やがて彼らは、現在の総合格闘技に近いプロレスを確立していく。

そんなプロレス史に残る転換を起こしたUWFだが、当時技を磨いた道場の場所が実は用賀にあったのだ。

正確な住所は不明だが、ネットにある動画などを見る限り、砧公園のそばにある世田谷区立運動場のあたりだと思われる。この場所は、UWFを支援していた運送会社が持っていた土地であり、その場所で前田日明や高田延彦は汗を流していたのだった。

【中編に続く】

世田谷とプロレスシリーズ