に投稿

世田谷歴史ミステリー第2話〜世田谷区岡本の「たたりの森」の謎を追え!【前編】

最初に上の地図を見てほしい。世田谷区の砧公園のそばにある直線の道路が、まるで何かを避けるように、三角形の鋭いカーブを描いている。不自然に曲がったこのカーブができた理由は「たたりの森」が存在したからだという。

「たたり」とは、一体どういうことだろう。グーグルマップを見ると「岡本第六天社跡」という文字が書かれている。

たたり? 第六天社? 一体どういうことだろうか……。

一つひとつ謎を解いていくために、まずは聞きなれない「第六天社」について調べてみることにした。

江戸時代に大流行した第六天神社

第六天という文字を見て、最初に思い浮かんだのは、織田信長が言ったとされる「第六天魔王」という言葉だ。

これは仏教徒を焼き討ちした信長に対して、武田信玄が信長宛ての手紙で「天台座主 沙門 信玄」と大げさな肩書付きで書いてきたので、信長が、何言ってやがる!とばかりに「俺は第六天魔王だ!」と手紙で返した、というエピソードから来ている。

言葉の意味はよくわからんが、とにかくすごい自信だ、と思っていたけど、よく考えたら第六天魔王ってなんだ?

調べてみると「第六天とは仏教における天のうち、欲界の六欲天の最高位にある他化自在天をいう」とあった。

分からない言葉が多いが、どうやら仏教用語のようである。さらに調べた結果を踏まえて、分かったことを書いてみたいと思う。

まず仏教の天敵は、煩悩である。煩悩とは除夜の鐘の「108つの煩悩」で知られる人間の欲のことである。美味しいものが食べたい、眠いから今すぐ寝たい、今日は家でゴロゴロしたい、やることがあっても遊びたい、それらは全て煩悩である。

そうした煩悩の世界を抜けた「悟り」を目指すのが仏教だとすると、その対極である快楽や欲の世界のトップに君臨するのが「第六天魔王」なのである。

だからこそ信長は、信玄が仏教の偉い人だ、といった時に、煩悩の世界のトップである、第六天を持ち出したのだ。

葛飾北斎の『釈迦御一代図会』で仏法を滅ぼすために釈迦と仏弟子たちのもとへ来襲した第六天魔王

さて、そんな仏教の敵である第六天だが、仏門に入っていない庶民からしたらどうだろう。なんなら、第六天を神様にしたら、「ご飯をたらふく食べるのも神様のため、昼まで寝ているのも功徳だ」なんて言って、第六天を持ち出すことで、煩悩、欲の世界を堪能することができるのだ。

これが実は江戸時代に大流行したのだ。特に東日本を中心に流行ったそうだ。確かに江戸っ子が好きそうな宗教だ。ということで関東の色々なところに「第六天神社」(場所によっては第六天社という名称)というのものが存在したという。

だが、現在はほとんど残っていない。同じく江戸時代に爆発的に流行した稲荷神社が今も残っているのに、なぜ第六天神社は残っていないのか。

その原因となったのが、明治の神仏分離にある。それまでの日本は神社と仏様を同じように扱っていたが、本来は別の宗教である。それらを整理整頓する流れの中で、第六天神社は名称を改称する、あるいは他の神社に合祀や相殿、末社になる、といった形で吸収されてその数を減らしていった。

また、伝説では第六天は、男女に対して自由に交淫・受胎させることができる力があるとされ、他人の楽しむ事を自由自在に自分の楽しみにかえる法力を持っている、という怪しいところもあったので、そういうのが「外国から見て恥ずかしくない日本に!」という明治の空気の中で良くなかったのかもしれない。

まとめると、第六天は、江戸時代に流行したが、明治に入るとぐっと数を減らした。

そんな第六天が、岡本にあったのだ。しかも「たたりの森」のあった場所に。第六天は、庶民に大人気だったので、たたりとセットになっているケースは、全国的に見ても非常に珍しいという。

それでは次に、この「たたりの森」とは一体なんなのか、どのような実害があったのか、そこを掘り下げてみたい。

たたりの森の木を切るとケガをする

世田谷区の岡本は、用賀インターの近くのマクドナルドの裏の辺りから二子玉川の方に広がるエリアである。

急な坂が多いのが特徴だが、緑が多く、丸子川や谷戸川のある風光明媚な場所として知られ、明治時代には、岩崎小弥太、鮎川義介、高橋是清など当時の政財界のトップの別邸が存在した。

世田谷区でも屈指の豪邸が立ち並ぶエリアであり、現在でも日本人なら誰でも知っている大物ミュージシャンが住んでいる、という噂もあるほどだ。

砧公園の近くのエリアである岡本だが、砧公園が開園したのは、戦後の1957年。そのずっと前、江戸時代のこの辺りは「第六天の森」と呼ばれる大きな森があったという。

そして、江戸時代、この森では草木一本切ることが許されなかったという。

しかも、この地域には、年貢のほかに妙な役目があった。それは将軍家が鷹狩で使用する御鷹用の餌である、昆虫のオケラを年貢と一緒に納める必要があったのだ。

ちなみに、オケラという名前はもともと「ケラ」だったが、将軍家に納めるものだから、丁寧な「オ」がついて、オケラになったという。

そうした中で、ある時、幕府から森の横の道を広げるようお達しがあった。村人はたたりの森の木を切ってはいけないと、取り下げを依頼するが、その願いは叶わず、工事をすることになってしまう。

しかし、いざ村人がナタやオノで木を切ろうとすると、次々にその道具によってケガをしてしまう人が続出し、その結果、幕府も工事を諦めてしまったそうだ。