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世田谷歴史ミステリー第1話「世田谷城」の抜け穴には金額財宝が埋まっていた!?【前編】

世田谷区にはかつてお城があったという。

それを知ったきっかけは、豪徳寺だった。ある日、豪徳寺の位置を確認しようと、地図を見ていたら、その隣に「城址公園」という場所があったのだ。

城址公園とは、お城があった跡地に作られた公園のこと。全国に城址公園はあるが、世田谷区にあるのは知らなかった。

高級住宅地といわれる世田谷区にお城があったとは。歴史好きな私は、早速、お城の痕跡を求めて現地に行ってみることにした。

世田谷線で城址公園へ

東急田園都市線の三軒茶屋駅で世田谷線に乗り換えて、宮の坂駅に降り立った。
駅を降りて、豪徳寺の先にある城址公園を目指す。

ついでだから手前の豪徳寺にも立ち寄ってみる。招き猫の置物が大量に置かれている。

それを撮影しようと、多くの外国人が訪れていた。海外には招き猫がないから珍しいのだろう。そんなことを思いながら、豪徳寺を後にした。

目指す「城址公園」は、豪徳寺と隣接する場所にあった。

広さは約1万坪と言われており、野球場3個分ぐらいの広さだ。公園としては大きいが、一般的なお城と比べるとだいぶ狭い。公園に入ると、7メートル程度の小高い山があり、その周りが石垣のような造りになっている。目の前の階段部分もかなりお城らしい雰囲気がある。

とはいえ、お城っぽいといえば、お城っぽいといえるが、一般的に想像するような、天守閣があるお城らしいものはどこにも無い。山の上に登って下を見ると、家族連れが歩いている。あそこがきっと空堀(水の入ってないお濠)だろう。そのほかに立派な井戸の跡もあった。だが、お城の痕跡はそれぐらいだ。

そもそも、ここは誰のお城なのだろう。区立図書館の郷土資料コーナーに行き、調べてみることにした。

そこでいくつか資料を読むうちに、まるで月刊「ムー」の記事のような驚きの情報にたどり着いてしまった。ウソだろ、思わず本を地面に落としてしまう。周りの視線を感じながら、大急ぎで本を拾い、席に座る。こんなものがあるとは・・・。

その事について書くためには、まずはこの城の持ち主について書き記したいと思う。

吉良家と世田谷城

世田谷城は、吉良氏という一族のお城だった。

吉良といえば、忠臣蔵の吉良上野介(きらこうずけのすけ)を思い浮かべる人もいるかもしれないが、源流は同じであり、奥州吉良家と呼ばれる流れが世田谷吉良家であり、赤穂事件の吉良上野介は、三河吉良家と呼ばれる家系となる。

吉良家の家柄は、のちに将軍となる足利氏の一門であり、「御所(足利将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」という言葉が残っている。いざという時には将軍になれるほど、名門の一族だったのだ。

この吉良氏が現在の世田谷に来たのが、14世紀後半(西暦1351年から1400年)だ。

14世紀後半と言われてもピンと来ないので、日本の年表を見てみると、鎌倉幕府が滅亡したのが1333年。その後、1338年には足利氏が室町幕府を作り、勢力を拡大する。

これが足利氏の一門であった吉良家にも恩恵をもたらす。1366年に世田谷郷が与えられたのだ。世田谷に来た吉良氏のために、のちに世田谷城になる場所が1394~1426年頃、居館として整備された。つまり、最初は城ではなく館だったのだ。

それから吉良氏は二百数十年の間、この地を治め、吉良の館は「吉良御所」「世田谷御所」と呼ばれていたという。

世田谷城はいつお城になったのか?

さて、世田谷の地にやってきた吉良家。彼らの館が明確に城になった時期は特定されていない。だが、城になったとしてもそれは多くの人が想像する天守閣があるような城ではなく、平地に土塁や堀りなどを作って城砦化した程度だったのではと言われている。

やがて八代続いた吉良家の世田谷城に危機が訪れる。秀吉の小田原攻めだ。

小田原攻めとは、豊臣家と北条家の戦いである。一見、吉良家とは関係のない話のように思えるが、この時期、吉良家は北条家と近い関係にあった。

当時の北条家は関東を治めた大名であった。世田谷にいた吉良家は生き残るために北条家と婚姻関係を結んで、その庇護下に入っていたのだ。

地域で一番大きな北条家の下に入って安心していたが、やがて関西にいた秀吉が日本統一の最後の大仕事として、北条家に攻撃を仕掛けることになる。それが「小田原攻め」だった。

この小田原攻めに対して、吉良家が一緒に戦ったなどの記録は残されていない。とはいえ、北条家の下に入っていた吉良家にとっても小田原攻めの影響は大きかった。

1590年に北条家が破れると、吉良家は上総国(現在の千葉県)へと逃れ、世田谷城は廃城となってしまったのだ。

ここで世田谷城の歴史は終わってしまう。その後に登場するのが、豪徳寺だ。

ここで1つ郷土史の中で議論になっていることがある。果たして世田谷城はいまの城址公園のエリアだけを指すのか、それとも豪徳寺も含んでいたのか、という問題だ。

現在有力なのは豪徳寺も含む、という説らしい。そうなると広い。一気に観光地などで見るお城らしい広さになる。

そして、もう一つ面白い話がある。実は世田谷城には抜け穴があったというのだ。

後編につづく…