前編では、世田谷区の砧公園のそばにある奇妙なカーブの理由が「たたりの森」と呼ばれた場所に原因があること。その地域の後に残されていた「第六天社跡」について紹介した。
後編では、このエリアに残るたたりの森の痕跡について書き進めていこうと思う。
たたりの森と砧大塚
このたたりの森の話を調べていて、ようやく分かったことがある。それは砧公園の中にある「砧大塚」という謎のこんもりした山のことだ。
公園の中に高さ4メートルぐらいの古墳のような山があるのだ。いつも大勢の子どもが登って遊んでいるのだが、その看板には、こんなことが書いてあった。
「この遺跡は、いわゆる古墳ではなく、修法の壇(仏教の呪術を行った祭壇)として造られたものらしく、もとの位置(東名高速の下)から約50メートル北のここに移設し、復元したものである」
この元の位置と、岡本のたたりの森は極めて近い場所にある。つまり、この二つは関連したワンセットと考えるほうが自然だろう。
そうなってくると、また違う景色が見えてくる。
岡本の森には、第六天の神社があり、そこでは仏教の呪術が行われていた。辞書によると呪術とは「超自然的・神秘的なものの力を借りて、望む事柄を起こさせること」である。
村人が何を望んでいたのかは分からないが、そこには何か公にはできない、隠すべきものがあったのだろう。
村人はその森の中の隠すべきものを守るために「ここにはたたりがある!」と言って、人を寄せ付けなかったのではないだろうか。
その場合、そこには何が隠されていたのか。気になるのは、第六天に関する本に書かれていた「北条早雲が第六天を信仰していた」という話だ。
北条家といえば、歴史ミステリーの第1話で書いた通り、世田谷城の城主、吉良家がその力を頼った関東の大名。秀吉の小田原攻めで、吉良家は、現在の千葉県に逃げたとされている。だが、もしも北条家、吉良家の残党が岡本の森に逃げていたら……。
そうなると、世田谷城の抜け穴に置いておいた金銀財宝は、岡本の森に移送され、隠されたのではないか。そして、岡本の人たちは、彼らと宝を隠すために「ここにはたたりがある!」と喧伝し、人々を遠ざけたのではないだろうか。
そんな妄想が広がってしまうが、これはあくまで妄想である。岡本の郷土資料にいくら見てもそんな話は一切出てこない。
だが、たたりの森がある!=何かを隠していた、というのは、あながち間違いではないように思える。隠していたのは、人だったのか、物だったのか、そして彼らは呪術で何をしていたのか。
謎は深まるばかりだ。
現地はどうなっているのか
さて、ここまで郷土資料などをもとに書き進めていたが、実際に自転車で現地に行ってみることした。
環八沿いのニトリを通り越し、スターバックスを超えて、マクドナルドのある高速沿いの道を5分ほど進むと、ようやく到着した。
そこには、1本の木と切り株があった。第六天について書かれた本では、岡本のこの切り株には触っていけない、と書かれていた。もちろん触らない。
何か寒気がする、とか、そういうのは感じない。ただただ、不自然なカーブがある。それだけだった。向こうから来た車が急カーブを注意深く通り過ぎていく。
江戸時代にあった地元の因縁が今もこの道を通る人々に影響を与えているのだ。そう考えるとなんだか不思議になる。
それにしても触ってはいけない、という切り株の下には一体何があるのだろう――。
エピローグ~移転先の神社で見たものとは
岡本の第六天は、区画整理のために、昭和39年に近所の岡本八幡神社の境内にご神体を移している。ついでなので、その岡本八幡神社に行ってみた。
立派な神社の脇にある、細い道の奥に「第六天社」と刻まれていた小さな祠があった。これこそが、たたりの森にあった、第六天社なのだろう。とても、かわいらしい祠だった。
そこで手を合わせて、今回の物語は終わりのはずだった。
そう、実はこの神社、地元の人の間では、ちょっと知られている。それは入口の鳥居の裏にある灯篭の寄贈者が、某有名ミュージシャン夫婦だからだ。
ご近所さんなのか、この神社に縁があるだけなのかは分からない。だが、その想像を超えるビッグネームに驚いてしまうことだろう。
気になる方は、ぜひご自分の目で確かめてみてはいかがだろうか。
1978年生まれの編集者。世田谷区用賀在住。子どもは長男(7歳)、次男(4歳)の二人。歴史と散歩と釣りが好き。最近は子どもと多摩川で釣りをしたり、プロレスの歴史を調べることにハマっている。