世田谷城の抜け穴は実在したのか?
抜け穴と聞くとワクワクするのは、歴史ファンだからか、隠れ家を作っていた少年時代の血が騒ぐのか、どちらか分からないが、お城に抜け穴があったと聞くと、ちょっとワクワクしてしまう。
抜け穴の用途は、いざという時に逃げるものだろう。では、具体的にどのあたりにあったのか。それは城址公園から現在の豪徳寺を抜けて、宮の坂駅のそばにある「世田谷八幡神社」の辺りまで続いていたと言われている。
だが、残念ながら証拠はない。郷土資料によると、昔のお城の研究家は「この城には抜け穴があった」と明確に書いており、土地の古老も電車を敷くための工事の時に穴があるのが見えたと語っているという。そんな話がある一方で、いや、あれは戦時中の防空壕だ、という話も載っていた。つまり、噂は残っているが確証はないのだ。
では改めて調べようにも、現在は住宅が立ち並び、今さら地下を掘って確かめることは不可能になっているので、その真意は不明になっている。
もっといえば、その抜け穴には「金銀財宝が隠されている」という言い伝えがあるという。これこそが、先述した驚きの情報だった。
世田谷城の抜け穴に金銀財宝があった!?
抜け穴から逃げる=城を捨てて遠くに行く、ということであり、それならその途中に逃走資金として財宝を隠しておく、というのは納得できる話だ。
とはいえ、さきほども書いたが抜け穴の調査は行われていないため、財宝を吉良家が持って行ったのか、それともいまも誰かの家の下に眠っているかは分かっていない。
世田谷城で二百数十年も貯めこんだ金銀財宝はいったいどれほどの額だったのか。小田原攻めにも行ってないとなると、それほどお金を使う機会も無かったことが想像される。
なんだか徳川埋蔵金のような話だが、それが世田谷の話として残っているのである。
世田谷城の抜け穴には金銀財宝が埋まっていた――。
その真相よりもそんな話が残っていた、というロマンに心が震えてしまう。
ああ、いい話だ、なんていい話だ、と思いながら、ぼくは無意識のうちに家にあるはずのスコップの位置を思い出していた。
世田谷城址公園データ
■住所
東京都世田谷区豪徳寺2-14-1
■アクセス
世田谷線宮の坂駅下車徒歩5分
(参考文献:せたかい 第53号「戦国時代の世田谷城と世田谷新宿」永原慶二、「世田谷城の抜穴について」相原明彦)
1978年生まれの編集者。世田谷区用賀在住。子どもは長男(7歳)、次男(4歳)の二人。歴史と散歩と釣りが好き。最近は子どもと多摩川で釣りをしたり、プロレスの歴史を調べることにハマっている。