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「田園コロシアム」のプロレス名勝負、名シーンを振り返る【世田谷とプロレスシリーズ 番外編】

田園コロシアム

かつて田園調布に「田園コロシアム」というスタジアムがあった。そこではプロレスの歴史に刻まれるような名勝負や数々の名シーンが生まれた。閑静な住宅街という言葉がぴったりの静かなこの街にプロレスのリングがあったなんて、いま思うと驚きだ。一体現在はどうなっているのか、まずは現地に足を運んでみることにした。

田園コロシアムとは

田園コロシアム01
写真提供:大田区

マンガ「キン肉マン」にも登場する田園コロシアムは、住所としては大田区になるので「世田谷とプロレス」シリーズにおいては番外編という位置づけになる。

事前に調べた場所を目指して、東急東横線の田園調布駅から5分ほど歩くと、線路沿いに「田園テニス倶楽部」という、まるで『めぞん一刻』のような趣のある建物がある。

田園コロシアムは、この「田園テニス倶楽部」のスタジアムとして、昭和11(1936)年に建造された。

テニスクラブの奥には大きなテニスコートが複数あり、年輩の男女が楽しそうにテニスに興じている。時折笑い声も聞こえるその光景は、いかにも高級住宅街のテニスクラブという雰囲気だ。

現在の敷地は、それほど大きくないが、隣接する大型マンションの部分がかつてスタジアムがあった場所であり、当時の写真を見るとかなり大きいことが分かる。

田園コロシアム02
当時の田園コロシアム

こちらのスタジアムは、プロレス専用スタジアムではなく、テニスの大きな大会やボクシングの大会などのスポーツ関連のほかに、ピンクレディーやオフコース、サザンオールスターズなどのコンサートも開催されていた。

その後、施設の老朽化や街の再開発の影響により、平成元年11月、昭和の終わりの年にスタジアムとしての役目を終えている。

田園コロシアムで生まれた名勝負、名シーン

そんな田園コロシアムは「昭和プロレス」を語るうえでは重要な場所である。そこで今回はプロレスの歴史に刻まれた田園コロシアムの名シーン、名勝負を3つ紹介したいと思う。

1、ラッシャー木村「こんばんは」事件

名レスラーの一人、ラッシャー木村といえば、マイクパフォーマンスが有名だった。

プロレス会場という殺伐とした場所で、こわもてのおじさんがマイクを握り、相手をにらむ。何を言うんだろう、と思ったら、新年の挨拶だったり、ジャイアント馬場の健康を気遣ったりと、いつもユーモラスなマイクパフォーマンスで笑いを生んでいた。

そんなラッシャー木村の原点といえるのが、1981年9月23日の田園コロシアムで起きた、ラッシャー木村「こんばんは」事件だった。

当時のラッシャー木村は「国際プロレス」という団体のエースだった。国際プロレス対新日本プロレスの試合を直前に控え、田園コロシアムに乗り込んで来たラッシャー木村。アントニオ猪木との一騎打ちを前に、アナウンサーから意気込みを聞かれ、そこで放った第一声が「こんばんは」だった。

コノヤロー猪木、とか威勢の良いことをいうのかと思ったら、「こんばんは」という夜のご挨拶。そのあまりに意外な言葉に会場からは笑い声が漏れる。その後、意気込みを語るが、最初のこんばんはの印象が強すぎて、何も入ってこない。

相手のプロレス団体に乗り込んで、最初の一言目が「こんばんは」とは、なんて丁寧な人なんだろう。

そして、この言葉がラッシャー木村の運命を変え、その後、ラッシャー木村といえば、マイクパフォーマンスと言われるようになるのだが、そのきっかけを生んだ「こんばんは」事件の舞台こそ、この田園コロシアムだったのである。

2、二代目タイガーマスク(三沢光晴)がデビュー

昭和プロレスを語るうえで外せないのが、タイガーマスクである。

テレビアニメ「タイガーマスク二世」がヒットし、そのキャラクターを実際のリングに登場させようと、新日本プロレスはイギリスで修業中の佐山聡を帰国させ、1981年4月にタイガーマスクとしてデビューさせた。

初代タイガーマスクは爆発的な人気を得て、サイン会を行えば長蛇の列となったが、人気絶頂の1983年、佐山聡は突如、新日本プロレスを退団し、引退を発表した。

宙に浮いた形となったタイガーマスクの二代目として登場したのが、後に全日本プロレスのエースとして君臨し、プロレスリングノアを立ち上げた故三沢光晴だった。

デビュー前の三沢はメキシコに修行に行っていたが、そこに当時の全日本プロレスの社長であるジャイアント馬場から電話が入る。

「コーナーポストに飛び乗れるか」という馬場の質問に「はい、乗れます」と答えたところ、すぐに帰国を命じられ、三沢は二代目タイガーマスクとしてデビューする。

名レスラーとしてプロレス史にその名を刻む三沢光晴が、タイガーマスクとしてデビューした場所。それこそが田園コロシアムだったのである。

3、アンドレ・ザ・ジャイアント対スタン・ハンセン

日本のプロレスを語るうえで、外国人レスラーは欠かせない存在である。

力道山の時代、戦争に負けた日本人は、外国人を空手チョップでなぎ倒す力道山に熱狂した。それはスポーツとしてのプロレスを超えた日本人のプライドをかけた戦いであり、敗戦の記憶があったからこそテレビの前の人々はあんなにも熱く力道山を応援したのだ。

このように日本のプロレスの創成期から外国人レスラーの存在は必要不可欠であり、数多くのレスラーが日本のリングに上った。その中でも、最強の呼び声が高かったのがスタン・ハンセンとアンドレ・ザ・ジャイアントだった。

大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントは身長2m23cm、体重260kgというけた外れの大きさ、一方のスタン・ハンセンも1m91cm、140gという巨体であり、両レスラーともに最強の呼び声が高かった。

二人が対決したのは1981年9月23日、会場は田園コロシアム。ラッシャー木村の「こんばんは」事件と同じ日、同じリングで勝敗を競ったのがこの二人だった。

最強外国人決定戦としてプロレスファンの注目度も高く、集まった観客は1万3,500人。入りきれず、帰る人も多数出たほどで、田園コロシアム史上最多の観客動員数だった。

集まった観客のボルテージが高まる中で、試合開始のゴングを前に戦いを開始する二人。間に入ったレフリーが小さく見えるほどの巨体同士の対戦が始まった。

特に観客席から大きな歓声が上がったのが、2m23cmのアンドレの巨体をハンセンがボディスラムをする大迫力のシーンだった。アンドレが投げられるのは、世界で5番目だったことから、実況の古館伊知郎が言った「世界で5人目、世界で5人目」という言葉が印象に残っているプロレスファンもいるだろう。

その後も場外で激しい乱闘を繰り広げる二人。結局、アンドレの反則負けとなった試合だが、実況を担当した古館は当時を振り返って「できれば客として見たかったベストバウトのひとつ」と語るほどのプロレスの歴史に残る熱い戦いだった。

現在の田園コロシアム

かつて数々の名勝負が繰り広げられた田園コロシアムの跡地は、近代的な大きなマンションとなってしまった。なにかスタジアムの痕跡は無いかと探してみると、マンションの隣にある公園の名前に「田園コロシアム」の略称である「田コロ」の文字が残されていた。

田園コロシアム03

その公園で子どもたちが遊んでいる。男たちが汗を流し勝敗を競った田園コロシアムの記憶と、子どもたちの楽しそうな笑い声のギャップに時代の流れを感じてしまう。

スタジアムの記憶は月日の流れとともに、いつしか地域の人々から薄れていくだろう。だが、プロレスファンにとって田園コロシアムという響きは特別であり、その名前は永遠に語り継がれていくだろう。